アダプト2
4年前の2009年8月31日
国中が政権交代に沸騰した。
アメリカと対等に物言える自主外交に半狂乱し狂喜に全身の震えが止まらなかった事を覚える。
日本人に生まれ日本人であることに大きな誇りを感じ取った年でありました。
処が、オバマさんにまで“トラスト ミイ”と口走り、何もかもがどんでん返しでひっくり返ってしまった。
今更のように、鳩山さんはとんでもない政治家ではあったのだが、わたしは一つだけ評価しいことがある。
総理の演説の中で忘れられない一場面を思い出す。
チョーク工場に働く障害を宿す子らが目を爛々と輝かせ真摯に生きている姿を的確に表現していた。
一国の総理の題材としてとても奇抜に感じた。
その工場長と僧侶とのやり取りの中で人間たるものは人に褒められ評価され、人の為に役立ち感謝され、人さまから求められ必要とされる程幸せなことはないと言う。
如何に心身に障害があろうとも役立たずの老人であれ脛に傷持つ劣等生であれ『新しい公共』の場面が必ずや設定され提供されるもの固く信じ身を乗り出し固唾をのんで期待したのです。
国民一人一人に生きがいと働き甲斐を公約したかに見えた。
若しや、此の事のみに一点集中し邁進する政権交代劇であったのならばさぞかし異なった国様に変じたであろうに実に惜しい。
それが何と飛んでもない脱線転覆劇に一変してしまった。
謀反仇討劇は「時代劇」だけで結構なのですよ。
裏切られたものたちは溜まったものではない、みなソッポを向いてしまった。
最早、『新しい公共』は死語と化してしまった。
いや待てよ、ひょっとして或いは『アダプト プログラム』はその延長線上にあって名称を変えて再現されたものなのかも知れない。
何をやっても褒められたことがない。
役に立ったと誰からも感謝されることもなし。
もう誰からも必要とされぬ詰まらぬ老人と化してしまった。
限りなく悲しく寂しいのです。
斯くなる心境の折に『アダプト』と云う横文字にお目に掛かり激しく気持ちが揺れ動いた次第なのです。