津田家のルーツを辿る≪8≫

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彫刻家吉田三郎作銅像『航空』と「JAXAの父」斯波忠三郎のレリーフ
無断掲載
 
 
8 津田内蔵助正行の養子斯波蕃のこと
 
 些か高慢ちき過ぎて鼻持ちならん事なんだがわたしの母方高祖父津田清三郎近猷の実の弟津田音五郎は人持ち組家老職たる津田玄蕃家へ養子入りし11代目を継いで津田内蔵助正行と称した。
 此の内蔵助正行は玄蕃家正統9代目正矩の嫡男斯波蕃(幼名正邦)を養子にして迎い入れていた。
 当然ながら、此のわたし斯波蕃とは血の繋がりはあるはずもない。
 
 
 斯波蕃は天保14年(1843年)に金沢で出生し明治40年(1907年)鎌倉にて病没している。
 その間、戊辰の役での戦功で華族・男爵の地位を得た人である。
明治三年の自作の由緒書きに従えば、斯波蕃の実父は津田正矩で、養父は津田内蔵助正行に他ならない。
妻は生駒勘右衛門の妹で、外に義弟三人の名が掲載される。
共に養父内蔵助の二男三男四男に当たる人物で特に四男斯波淳六郎に注目したい。
その後、斯波蕃には実子斯波忠三郎と斯波孝四郎がさずかる。
共に名を成す人物として多大なる名声を博した。
長男忠三郎は我が国の宇宙航空研究開発機構JAXAの父」と称される人である。
小惑星イトカワ」帰還の礎を築いた人物とは何とも大きな驚きだ。
四高から東大工学部を出て、当初は船舶用デーゼルエンジンの開発で名を売り、後には長距離飛行機の設計製作開発面に転身し戦前のある時期には自作の「航研機」が飛行距離一万一千キロの世界記録を樹立したこともあったのだという。
また、次男孝四郎は同様一高東大工学部の秀才コースを歩み、三菱重工業に籍を置き我が国造船業の発展に大きく寄与した人物らしい。
三菱重工業の初代会長を務めそれがもとでGHQより公職追放の身にもなったが、戦後には経団連の重鎮として君臨し日本経済復興の牽引車となって活躍したのだという。
以上はパソコン上のデーターを検索し要点を転記したに過ぎない。