その七 いばらとて 花芽つきしや 高尾台
チマチマとことを為す習性は此の時に培われたのかもしれない。
これぞ並はずれた下手の横好きと云えまいか。
下手なままそこからは一向に脱却しないのです。
NEC社機種PC88機と春望がFUJITSU社Windows7とWORD2010に移りかわっただけです。
OTARORIと名付けた、なんと詰まらぬ呼び名だろう。
この種の学級便りは若き先生方は好んで発行された。
五十を周った老いぼれが二番煎じを演じてみても見苦しいことは承知していたが敢えて試みてみた。
語っておのれを前面に出すよりは、むしろ書面にて現わす方が容易であった。
過去にこれに類したことを為した覚えはない、その必要性を感じなかった。
全て若さでカバーできることであった。
この年がはじめてであった。
老いし教師が、益してや満身創痍で生気すらもぬけの殻と成り果てた者の最後の足掻きに等しかった。
片意地を張って、おのれのアイデンテイテイを誇示したい強がりだけであった。
対象は四十四名の生徒たちであり、その保護者でもあった。
身の回りに散見する些細な現象に何らかの価値を見出しわたしなりの見解を添えて披露した。
四十号まで数えた。
平教師の成れの果てではあるが、それでもささやかなる教育実践の証しの片鱗だけでも留め置いた。
誰からも顧みられることはなかったが、唯一Sさんのお母さんより、その都度確と紙面には目を通すと聞いた。私には大きなカンフル剤となった。
その理由付けについては問い質すことはなかったが多分その内容が限りなく下らなく詰まらないので読んでいられたにしても一向に構わなかった。
それでも私は満足した、それでもよかった。
実のところ、詰まらぬ奴が意味不明な寝言を性懲りもなく吐き続けることをまことしやかに嘲笑したり冷笑する幾つもの顔をわたしに知っていた。
それでもよかったのです。
然もありなんと思うだけだったのです。
当時はNECのPC88機種を無理をして入手し、ワープロソフトの「春望」を駆使しながら無我夢中で打ち込んだ。
我執を貫き試行錯誤を繰り返しながら悪戦苦闘したことを、今もって鮮やかに思い起こすのです。
当時「一太郎」と機種PC98は余りにも高値で羨望の的、高嶺の花でありました。
既にPC88シリーズのこの機種は機能的にも時代遅れであったがそれでもこよなく愛用しました。