老いのひとこと

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今度の教養講座は真宗のお坊さんのお話でした。


この手のお話は余り得手ではないのだがお盆にはご先祖の霊魂が家族の元に帰られるので迎え火送り火で持て成すのだと話される。


お彼岸には故人の霊が戻られることはないので精いっぱい懇ろにお墓参りをするのだとおっしゃる。


ご先祖の霊は霊界の片隅からこちらを覗かれているだけだそうなのです。


皆さん方は実しやかに神妙な顔で拝聴為されているではありませんか。


すると此のお坊さんはそれは如何なものかと疑問符を投げかけるように一つの歌を板書なされました。


「恋しくは


   南無阿弥陀仏


       称うべし


       われも六字の


         うちにこそ住み」


わたしは全く知りませんでした初めてでした。


此の歌はお坊さんのお話によれば法然上人の歌なのか親鸞さんの歌なのかそれとも蓮如さんの詠まれたものなのかよく判らなかったが判らないままに要するに真宗の教えでは盆も暮正月も彼岸会も何ら関わりなく何時如何なるときに於いてもご先祖の霊魂は南無阿弥陀佛を称え口にするもののこころの中にのみ住み給うのだと盛んにお説教為されるのです。


頑ななまでに素直で実直な篤き信仰心が全てでありましょう。


嘗て鳥越城と二曲城を囲んで攻防を展開した白山麓山之内衆の心意気が全てであるのではないでしょうか。


無条件で何が何でも絶対的に南無阿弥陀仏を信じなければ事が始まらないのです。


 


 


浄土真宗の教えは果たして寛大なのか矮小なのか偏狭なのか益々判らなくなってしまった。


救いを求めてやって来たが益々以って迷路に彷徨う結果に終わってしまった。


残念ながら至らぬばかりにわたしにはどうしても先が見えない。