老いのひとこと

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奇数木曜日が待ち遠しいわけではないがどうしたことか訳もなく気になって仕方がない。


門前でたじろぎながら恐るおそる一歩を踏み入れるかどうか迷っている。


今回はとてもお若い真宗のお坊さんでした、


心臓に大きな外科手術を受けられたらしくそのお話から物静かに切り出されました。


でもお坊さんのお話は分かったようで全然分かっていないのです。


つまり難しくややこしいのです、わたしが仏教音痴過ぎるのです、理解するだけの素養が足りないだけの話しなのです。


それでも耳の穴を穿って何か有益な為になる事が在りはしまいかと血眼で拝聴いたすのです。


ありましたありました。


御念仏「南無阿弥陀仏」のナムには付き従うという意味があるという。


阿弥陀さまに付き従いますと阿弥陀信仰を自分で告白する意味合いがあるのだとおっしゃる。


梵語のナムを親鸞上人は南無と云う当て字で表わされたという。


また念仏のことを名号ともいうのだと教えて戴いた。


奈良平安の世は


「名号より絵像


絵像より木像」と云って仏像を崇拝したが


鎌倉時代を迎えれば


「木像より絵像


絵像より名号」と称して専ら念仏を称えれば極楽浄土へ導かれると親鸞の教えにみな従ったのだと若きお坊さんはお説教なされました。


民百姓たち押し並べて貧者たちには仏像を囲う余力は在ろうはずがない専ら名号と云う南無阿弥陀仏を念仏として口にした。


お金を持たない貧しい人たちの極楽浄土への信仰の拠り所は御念仏を唱えるしかなかった。


お金を持たない者たちの健康志向の拠り所はゴルフやフィットネスクラブでは無理なのでラジオ体操で汗するしかない。


そんなもんかとつくづく感心しながら聞かせていただきました。


良い勉強になりました。