『剣道はすごいぞ』
―伝統と文化を大切にしてよりよい日本国をめざそうー
又しても古臭いむかし話になる。
もう13年も経ったがあのWBCタイトルマッチは忘れがたい。
日本人が勝利しながら日本人の多くは納得しかねた。
亀田選手とは関係ない、とにかくジャッジに納得しかねた。
不可思議なタイトルマッチだった。
尤も再試合で亀田選手は再度勝利し変な汚名をば返上したのは何よりだった。
ボクシング界に君臨した亀田三兄弟のお兄さん興毅選手は波乱万丈のボクシング半生であった。
プロ33勝2敗三階級制覇の偉業の持ち主に違いがないが何と言っても彼が最初に手中にしたWBA世界チャンピオンベルト争奪戦で展開された生々しい記憶はどうしても忘れ難い。
その四・・自己否定 一切捨てて 何もなし
亀田三兄弟をどのように評価しようが人それぞれの自由であり勝手であります。
拳闘と剣道の違いはある。
トとドの違いだけではない。
トドのつまりは大違いで行って来るほどの違いがある。
確かに勝負を競い合う格闘技には違いがない。
勝つために闘争心をむき出しにして死闘を繰り広げることも同じである。
平成18年8月2日のWBCライトフライ級王座決定戦にて何が展開されたかについては多くを語る必要はない。
ヴェネゼエラ人ボクサー ファン・ランダエタ選手から日本の皆さんへというメッセージが届いた。
《日本の皆さんから二五〇〇通以上の激励のメールをいただき感謝すると同時に素晴らしい感動もいただきました。
私は日本の皆さんの公正と誠意を重んじる心を心より尊敬します。
もし、再度日本へ行くチャンスがあれば、その時は日本の皆さんの誠意に対し私の試合を捧げたい。
『サムライの国』の皆さんへ》結語にサムライの国と言わしめたこのランダエタ選手の真意は決して額面通りだとは私は思わない。
極めてアンフェアーな勝利をアンフェアーなジャッジによりもたらされたにも拘らず、あの狂喜する親子の実態を目の当たりにした当事者の口から何ゆえ如何なる意図を持ってこのサムライなる言葉が吐き出されたのか。
これは最大級の皮肉を籠めた言葉だと思う。
日本人よ恥を知りなさい、もはや日本国には、かつての武士の道義も心意気も理念をも失ってしまってるじゃないかという侮辱とも取れる重大な言葉に取れるのである。
要は勝てばよいという勝利至上主義に毒されたわが日本国はかつての誇りであった武士道の徳目は遥か忘却のかなたへ去って行ってしまった。
廉恥心すら喪失した日本は惨めだ。
救いは地球の裏側に位置する国へ逸早くメールを送信した約2500人の健全なる日本人が存在したことだ。
この2500人を真に支援する本当の日本人は12500人しかいないという。
総人口の一万分の一に当たる12500人しかいないという驚きは大きいのである。そうすれば正確にはあと一万人とは余りにも寂しすぎはしまいか。
繰り返すが勝負だから当然勝たねばならない。
ただし、決して後ろ指を差されるのとなく正々堂々と戦わねばならない。
亀田さん、そうではありませんか。
死ぬ覚悟で全力を出し切る。
これは言葉だけではない。
本当に自分の生命を捨ててしまう覚悟、命を捨てるのだからどんな名声も財産も更には親や妻子までも一切合財のものを捨て切る。
大和魂を宿す日本人だけが有する実に高尚で高次元なる勝負観が存在すると思う。。依然として脈々と流れているのですよ。
亀田親子さん、もう一度日本人の血を蘇らせてほしい。
頼みますよ、亀田さん。
それとも、失礼だが、やはりこの場面には拳闘の出る幕ではないと言わせてもらうより仕方がない。
死んでしまうのだから何もかも捨ててしまい空無に帰るのです。
何もないのでわれもなければ敵もいない。おのれと今対峙する敵と称する相方の二人の人間の中を、天地創造と同時に生まれた生命、すなわち永遠の生命と根源の気が貫き通って二人の気が通じ合い、いわゆる「合気」となる。
そうすれば二人の生命を相互に認め合うことができるのです。
この領域に達すればまさに相抜けの技が可能となる。
剣の道の絶妙の域に入るのである。
稽古に立ち合うこともかなわず先の見えたしょぼくれ剣士には打った当たった、勝ったとか負けたとか生臭い言葉は御法度にして地位とか栄誉をも度外視し、何もかも捨て去り、ただひたすらおのれを責めおのれを否定し切って、日々の稽古に立ち合ってくれる御仁に、それが孫のような年若い初心者であっても打ってくれてありがとう、打たせていただきありがとうと感謝の気持ちをでっかく持って精一杯の力で一打入魂の打突に心掛ければそれでよいのである。
四つ目は余分なことは何にも考えずに感謝の気持ちだけを沢山持って稽古すればよいと云うことになりました。