下手糞老いぼれ剣士のルーツ《2》

勿論その間、わが大橋源左衛門は主君と行動を共とし当然のこととして家老職としての手腕を遺憾なく発揮したであろうことはいうまでもない。
処が、そこのところが最も知りたき事柄なれど如何にせん、これを解きほぐす手立ては今のところどこにもないのである。残念ながら仕様がないことなのである。
二代目大垣城主は長門守の嫡子である伊藤彦兵衛盛正が継いだ。慶長四年から慶長五年(一六〇〇年)までのわずか二年間という短期の在位であった。
当然わが九世の祖父大橋源左衛門は二代目伊藤彦兵衛盛正にも家老職として仕えたが、その知行高たるや一五〇石に激減してしまったのだ。
 この記載は高橋家の由緒書には見えるが激減する理由付けは一切ない。さらに不可思議なるは、後に詳述するが伊藤家由緒書では大橋源左衛門は主君長門守が没する慶長四年時点(一五九九年)以前において既にこの世に居ないことと相成っているのだ。
 このことについてはさて置くことに致して、実は慶長五年(一六〇〇年)は天下分け目の合戦の年であり、彦兵衛盛正は西軍石田三成に加勢し大垣城は三成軍へ譲り渡してしまった。弱冠十六歳の彦兵衛の判断としては止むに止まれぬ事情があってのことに違いない。
 依って二代目伊藤彦兵衛盛正は総てを失い浪々の身となるだけではなく、徳川家康軍に囚われ切腹を宣せられてしまった。
 その時、東軍の武将福島正則によって家康への助命嘆願がなされ、この温情のお蔭で辛うじて死罪は免れた。 
その後、正則ゆかりの広島は安芸国にしばし身を隠し、大阪夏の陣の後、ほとぼりが冷めたのをみて彦兵衛はなんとこの金沢の地にひょっこりと姿を現すのである。元和六年(一六二〇年)のことだった。
 大垣と金沢、そして伊藤家一族と大橋家一族、いわんや高橋家との接点が思わぬ背景の下で見えてきたのだ。これは実に画期的なことではないか。
 この接点を形成する媒体となったのが他ならぬ伊藤彦兵衛盛正なのだ。つまり彦兵衛の妻に当たる実名不詳ながらも鏡智院と申す女性の実家がこの金沢に在った訳なのだ。
 彦兵衛が十三歳の折、篠原出羽守一孝の娘が輿入れしたのだという。この篠原出羽守一孝は前田利家に仕える八家に次いでの筆頭の重臣であった。
 彦兵衛が妻の実家のあるこの金沢に身を寄せるには、むしろ必然性があったとさえいえるのである。
 さすれば当然のこととしてわが大橋源左衛門も彦兵衛共々この金沢の地に足を踏み入れていることには間違いはない。
なぜならば、実は高橋家由緒書には源左衛門は長門守死去後、彦兵衛が金沢へ起こしの折お供したと明記されているのだ。そして百五十石給わったのだとある。
そこで、この高橋家の由緒書と並び存する伊藤家の由緒書とは一体いかなる正体を宿すものなのか。この両者を対比すれば、幾多の矛盾点や相反する内容の記述が見えてくるはずだ。                   つづく