老いぼれへぼ教師の回想記《2》

わたしは自慢こきは大嫌いだ。これは自慢話ではない。自慢話であるはずもない。
新参者が与えられし使命を懸命に果たしきろうともがき切った結果に過ぎない。
文部大臣賞の勲章の重みがその後の彼らの人生に如何なる意味合いがあったものか、それは・・・
自分色を極力消したつもりだが若さゆえに独特の臭いがしてならない。ああ、たまらない。


其の一 駆け出しは 菊水分校 水清し


昭和三十四年春四月

 路線バスの終点小原町に降り立ち、今新たなる出発に際し一瞬かたくな態度で身構え、少しこわばる面立ちで第一歩を踏み出す。
程なく、まだ残雪を散見する早春の淡い草色の視界に、いがぐり頭とおかっぱ姿を認めるや次第に近づき『おはようございまーす』少年少女たちのやや緊張した、それでいてとっても人懐っこい挨拶が透き通った朝の空気を切り裂いて響きわたった。雪焼けした顔に真っ白い歯が光った。
 十数キロの山道を厭うこともなく、月曜日の朝はわれらを出迎えるのだ。
何かにつけ受動的でしかない今日の子らと違い、自ら両手を広げて学びを授けてくれる相手を果敢に迎え入れようとする健気なる姿勢がありありと見て取れる。
 われらのリュックをまるで奪うかのようにして背負い、カモシカのように飛び跳ねながら先導していく。
 小学生に混じって、下田の俊勝・中村の利雄・川村の政義・小西の正幸・下田の美代子・水上のさとえ・中西の政雄・中村の正男・小西の清・そして小西の勝信。紛れもない、この十名は私が教師一年目に受け持った生徒たちの全てだ。
 復々式学級であり単級の中学校の分教場だったので全教科を私一人で担当した。今にして思えば神業というよりは、その場しのぎのお粗末さの一言に尽きよう。それでも、こんな私たちに教えを乞う一途な姿には只々頭が下がるだけだ。
 数学、英語は扱いやすかったが社会は一番やりづらかった。もっとも、いかんともしがたい音楽は澤田朱美先生に、美術は末岡敬正先生にお願いした。
小学生を相手に守田光輝先生と田上稔先生が精を出された。                     


愛鳥モデル校

 犀川が山川町の滝亭付近で東に折れ、内川となり上流へと続く。水源は富山県境に位置する三輪山に発し、かつては平家の落ち武者が隠れ住んだという。
小原町より堂町を経由しておよそ十船瓠璽拭疾茲傍匿緜がある。
確かに平家の落人集落というと歴史のロマンを掻き立てるが、文献『内川の郷土史』に従えば加賀の一向一揆を象徴する「長享の一揆」で富樫一族は大敗し政親は自刃し果てた。この富樫一族の一家臣たる横隅右衛門が残党を率いてこの地に移り住み、後谷と称したのだという。
現に、隠れダニや紅屋敷、城場、的場なる呼称がこの地、菊水町に残ることよりして明白だ。昭和二十九年に旧石川郡内川村字後谷は金沢市編入することとなる。
 さすがに此処まで入ると、澄み切った空気が実に美味しい。樹々の梢には小鳥たちが囀り飛び交う。そして、一瞬その羽音さえ聴こえそうな静寂の中、突き裂くようにヤマガラのくちばしより鋭い金属音が鳴り響き、目の前の巣箱に消えた。
 雌鳥は卵を温めているに違いない。雄とおぼしき一羽が警戒を怠らない。川のせせらぎがかすかに遠く耳に入る。
 ここ菊水分校は恵まれた自然環境をふんだんに生かして、野鳥の観察モデル校として文部省よりのお墨付きだ。過去にも、山守先生のもと、巣箱の部・観察記録の部共々文部大臣賞の受賞に輝いている。
 多分、今年に於いてもそうあるべきものと私なりに勝手に判断し、全面的に協力を惜しまなかった。何分にも、重畳と連なる山並みに囲まれる閉鎖的地形なるが故に外部との接触が疎遠となり、自分たちの存在を強力に誇示できるものがなかった。
それで、誰しもが自分たち以外の世界へ自分たちをアピールできるまたとない絶好の機会だと、みんなが同じように共通理解し本校と分校が一丸となって取り組んだ。巻出幹先生が先駆者に他ならない。
 彼らは、言葉にこそ出さなかったが、今年も挑戦してみますのでよろしくお願いしまーすと懇願しているかのような積極果敢な姿勢を私は直感的に肌で感じ取った。
しかし、若しかしてそれが私の独善的な安易な判断に過ぎなかったとしたならば・・・・               
いや、確かに彼らは克明に観察し結果を記録したことは偽わらざる事実だ。
巣立ちを終えた初夏のころ、彼らは原稿用紙にまとめ私へ提出した。夏休みには終日、その添削に当った。
 彼らの作文力は実に旺盛で、そのボリュウムは大したものだった。原稿用紙にして一〇〇〇枚を優に超えていた。
巣箱作りに始まり、架設箇所の設定、朝夕欠かさぬ日々の営巣状況の観察、外敵駆除への工夫、産卵から孵化にいたる過程、更には餌の授受のようす等々綿々と綴った。
 この菊水の地にまで取材陣や報道陣が詰めかけ、新聞紙上にも写真入りで掲載されるのも例年の慣わしであった。
 昭和三十四年前後の頃の実績は嘘偽りなく厳然として存在した。
前述の『内川の郷土史』に金沢大学木村久吉先生が執筆された植物と鳥類の項にも菊水分校での野鳥観察に関する記述が見られるのである。十分に、それなりの高い評価を得たわけだ。
 実はあるきっかけがあって、文部省発行の観察文を収録した冊子に目どうしして見たい強い衝動に駆られ二〇〇五年の今年、内川中学校へ問い合わせたところ最早処分済みとのことであった。一九九〇年当時は職員図書に混じって実在していたのに残念なことだ。やむなく、国立科学博物館付属自然教育園へ閲覧を願い出た。好意的な対応あって、四十数年振りに再会できた。一部分をコピーした後返却した。
 真実、純粋な地球環境の保全や鳥類愛護の精神を教育活動の一環として根付かせようと試みる行為に対しては言葉を挟む余地はまったくない。
 しかし、応募作に優劣の評価が伴うとすれば、自ずと其処には純真無垢な動機とは逸脱した要素が混在するのもこれまた当然のことだ。
敢えて直言するならば邪まな動機が見え隠れすることもあったであろうと推察する。人間ならば、このようなおのれの中に潜むあらざる心,非なる心との葛藤があって何の不思議があろう。
おのれのあまりにも卑劣な姿に戦慄することもあったかも知れない。しかし、そのようなことを窺い知る手立ては私にはあるはずもない。
 昭和三十二年度・努力賞 下田俊勝他十八名
 昭和三十三年度・大臣賞 山形泰
・優良賞 豊島美世子他五名
 ・努力賞 小西正幸他八名
 昭和三十四年度・大臣賞 村本礼子 中村利雄
・優良賞大谷昭憲他六名
・努力賞 下田一信他八名
昭和三十五年度・大臣賞 川村政義
・優良賞 坂上弘子他六名
 ・努力賞 山岸常幸他十五名
 昭和三十六年度・大臣賞 小西勝信
・優良賞 野村良子他五名
・努力賞 水淵芳子他十二名    
以上延べ九十名の多くを数えるのである。