老いぼれへぼ教師の回想記《22》

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ここには半世紀間の時の経過がある。昭和四〇年に内川中学校菊水分校は廃校となり、昭和四八年には菊水町廃町に伴い内川小学校菊水分校もなくなった。
校舎は跡形もない。
昭和三八年撮影、九〇名近い児童生徒が学んだ。窓越しに雪囲いが覗える。
 
 
其の二  紫錦台 気ままに生きて 小手試し
 
 
神童此処に見る
 
 菊水にいた頃、村本礼子の実弟が小学生として在籍していた。大柄な子で気性はいたって温厚だったことを記憶する。村本博幸君といった。
 あの忌まわしき出来事を機に村本家は逸速く、笠舞の地へ転居された関係で博幸君は紫錦台中へ転校してきた。
 何と世の中広いようで狭いもの、長町分校の一年六組の名簿に名前があるではないか。私は七組の担任であった。
 実は愚かにも、むしろ憐れといわれても仕様がない程に、その間の記憶のほとんどを喪失してしまっているではないか。
 六組の担任は年配の小森先生と憶えがある。むしろ、私の方が異常に緊張を強いられて、何もかも失念してしまったのかもしれない。実に情けない。
 しかし、博幸君の成績抜群の真実だけは間違いなく明確に記憶に留めるのである。
菊水分校は複式学級もしくは複複式学級であり、決して十分なる学習が保障された訳ではない。
 にもかからわず、普通学級の子らに伍して、否それ以上の学習効果を存分に発揮し多大なる成果を不動のものとしている事実を目の前にして、教育とは一体何たるかを否応なしに意識せざるを得なかった。
 記憶力の良し悪しだけで頭脳の良し悪しを推し量り判断することは出来ぬにしても極言すれば教育も学校も教師もいらないことになりはしまいか。
 学校や教師の存在価値をも否定し去るような気にさえしてしまうのである。
神童まさに此処に存せりと言いたい
 ストレートで泉が丘高校そして富山大学を制覇したという。多分、上野先生の感化が強かったのだろう。