うらなりの記《44》

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わが父は余りにも偉大なる存在であった。いつも、負い目引け目に感じながら、なぜかしら畏敬の念をいだきつつも、寄り添わざるをえなかった。
ある意味では怖かった。正直云って、自分は父のようにはなりたくないという意識が常に働いた。
いつも、三尺下がって父の影を踏むようなことはなかった。
処が、昨今の就職氷河期と同じくわたしが学卒を迎えようとしたその時期は、丁度神武景気の反動で所謂なべ底不況期にあった。
就職試験に挫折感を強める息子のために、父は自分が身代わりにわたしに教職を道を明け渡すことを決意するに至った。
当時は、斯様な暗黙の人事が罷り通った。
不公正なる世襲人事に他ならない。
今日的には想像もできぬ悪習に他ならない。
わたしは、自分の心の内とは裏腹に教師の道を歩まざるを得なかった。
 
その三 父高橋忠勝(23) 
 
まとめ=その1

 
父は昭和三十四年三月三十一日をもって 金沢市 立三馬小学校校長の職を依願退職した。
 同年四月一日に私は内川中学校菊水分校に奉職した。この愚かなる親不孝者を救済せんが為に、父は吾が身を犠牲にしたのである。
 処が、この慈父の慈愛に報いることもなく、ただいたずらに無慈悲にも時だけが流れて行ってしまった。
 只只、断腸の想いが募るのである。父がこよなく愛した杯を親子で、心ゆくまで交わし合いたい。
 無為に過ごしてしまった実に味気のない、この私の足跡を私の父に語り聞かせて上げたい。
 多分、あなただけは苦笑しながらも、この私の杯をいつまでも受け続けてくれることだろう。
 多分、あなただけは、この私のような幾重にも重なる罪悪の限りを尽くし続けた愚かなる親不孝者でも赦して下さることだろう。
いや、赦して貰わなければならないのである