老いぼれへぼ剣士の夕雲考《43》

イメージ 1
 
梶原一騎という作家は、随分と破天荒な人生を傍若無人に生きられた方であるらしい。
戦後の民主主義を頭から否定され暴力行為を全面的に肯定された。
一方男女同権とか子供の人権あるいは優しい家族関係、更には平和主義思想をも無視し、否定し去るという典型的な戦前志向の人物であったのだという。
ところが此の主人公は、強きをくじき弱きを助ける美談の中で存在感をアピールした。
結末は、云うまでもなく「無私」と「自己犠牲」に彩りされたまま最期を迎えるのである。
 
片やもう一人、針谷夕雲は「相打ち」を極意の技とし刃挽きで以って人をぶった斬る程の暴力的畜生剣の主であった。
それが晩年には前代未聞の画期的な「相抜け」の極意技を成就させた。
明らかに、そこに「無私」と「自己犠牲」の精神なくしてあり得るはずがない。
両者には相通じるものがあるようです。
 
まとめ(6)=その2
 
此のタイガーマスクこと伊達直人の生みの親、梶原一騎戦後民主主義はもとより平和主義も平等思想をも否定する戦前志向の右翼的存在であったとは驚きを禁じ得ない。
痛快なるランドセル現象と重なり、猶の事ちぐはぐな違和感を拭い難いのである。
いずれにしろ、鈴木大拙の『貧の極意』『貧の平和』と針谷夕雲の『相打ち』『相抜け』と、今また伊達直人の『生い立ちと人となり』とを無茶苦茶に結びつけてしまった。
此の稚拙なる頓珍漢なオツムの程度をどうぞ笑ってやってください。
 
なお、2011年6月23日に投稿した私のブログ「伊達直人菅直人」の中で同じ内容のことをコメント済みなのです。
従って、これは二番煎じにすぎないのです。