老いのひとこと

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氏神様への初詣でです。


でも新興住宅地に住むものにとっては氏神様と云っても余りピンとこない。


中世のむかしには此の地は守護大名富樫一族の支配地でした。


だから近くにある馬替神社も禅ヶ峰神社も共に富樫一族の息の掛かった所縁の神社なのです。


然すれば、曲がりなりにも一向宗徒の末裔たるわたしらはあの一揆で対峙した富樫氏配下の神社へお参りいたさざるを得ない。


少しばかりちぐはぐではあるが何はともあれ拍手を打って参りました。


 


年の初めに願を立てながら先日読んだ新聞の社説記事を思い返した。


 


其処で目にした「余生三等分主義」のフレーズのことなのです。


自分に宛がわれた余生のエネルギーを三つに分けて


一つ社会のために役立てる


二つ家族を思いやる


三つおのれのために使う。


此の生き様の大切さを説いて呉れたのです。


ところが此のわたし人のため世のためにわが身を放り出して何ら奉仕らしき奉公を為した覚えがてんでない。


ずるくて薄情なる人間なのです。


此の際、神様にお赦しを乞うてみました。


遅ればせながらもこんなわたしでも何かしら世の中にお役に立ちたい。


何かよい知恵を授けてくださいと願い出たのです。


そしたら神様はそんなことはワシの知ったことかいなとそっぽを向かれたようでした。


バカな年寄りです、アホー臭いったらありゃしない。


 


更には掃除に洗濯、三度の賄いと何から何まで御厄介に相成る家内には平身低頭感謝いたさねばなるまい。


 


自分本位で身勝手すぎる此の「余生一等分主義者」のわたしへは恐らく神罰が下ることでありましょう。


いや、もう既にとっくに天罰が下っているのです。