老いぼれへぼ教師の回想記《16》

さらば菊水

 ここ菊水の地は、自然的・風土的な制約という宿命を背負っている。それ故に、この地の住人はこの悪条件を克服し脱却しようと懸命に生きた。その生き様が皆美しかった。
彼らは其処を蔑むこともなく、淡々と安住の地として確信し、こよなく愛し続けた。そういう彼らの生き方に私自身が勇気付けられた。そして私もこの地を愛した。
もっとも、わたしの離任後間もなくして突発した不慮の大事故については多くを知らない。
知らないというより知ろうとしなかったのかもしれない。
何ゆえならば、清純な思い出の中にそぐわない異質な残像を入れたくはなかったのが正直なる思いだ。

此処を、離れる気はなかったが離れざるを得なかった。三十七年間の教師生活の中に占めるこの三ヵ年間のウエイトは計り知れないものがある。
 時の流れは、全てのものを変容した。経済成長と相俟って科学技術の進歩という現代化の波は、この地を閉村・廃村の憂き目へと追いやり、彼らの幸せをも奪ってしまったようにさえ感ずる。
 その間にも、中村正男君・中西政雄君・鶴賀千鶴子君らと永久の別れをしてしまった。安らかに眠ってください。そして、平成二十年早春下田俊勝君とも別れた。
数年前に内川中学の同窓会幹事を務められる小西清君から、かつての分校跡地に記念の標識を建立する話を持ちかけられ、私は皆さん方の同意を戴くことなく独断的に賛同して標識建立に手を貸してしまいました。皆さん方が小西清君へ全ての権限を委任されているものと勝手に理解していた次第なのです。
遅ればせながら事後承認の形にて皆さん方のご了解をいただきたく右お願い申し上げます。
 なお、文中生徒諸君の皆さん方のお名前をば無礼にも呼び捨てにしてしまいました。
ご勘弁戴きたい。他意はないのであります。むかし、そうであったので当時のままの感覚でそのようにしてしまいました次第なのです。
更にはお気に触るような題材、文章表現、記述内容等々が多々在りますることは必至のこと、衷心より陳謝いたしとう存じます。
では皆さん、お元気で、さようなら。