うらなりの記《26》

おのれの負の遺産は極力秘め事として生きてきた。
あたりまえのこととして生きてきた。
それが今、おのれの斯くも無残な姿を吐露したとて何の意味があろう。
妻子や孫、周囲の者たちに何の意味があろう。
 
やはり、311の出来事が如何に日本人の生きざまにそれなりの変化を与えたかを、
自分なりに思わざるを得ない。
 
その三  父高橋忠勝(5)
 
 幼少期における体力的劣等感を引き摺りながら、高校入学のころより精神的にも滅入りがちな根暗人間へと変容していった。
 池田町一番丁から早道町の津田家での間借り生活、そして泉寺町の鍛冶飴玉店でも二階部屋での堅苦しい借間住まいへと住空間が強要された。
 戦後の厳しい住宅事情の中、日本人なら須らく、等しく艱難辛苦に耐え忍ばねばならない宿命を背負っていたのかもしれない。
 にもかからわず、ひ弱な私には耐え切れずに打ちひしがれてしまった。
 根性の腐った邪悪な論法だが、私の周囲の友人たちは押し並べて裕福な部類に属しているのだと腺病質に勘繰った。
 自分の置かれた生活環境を心から悔いた、嘆き悲しみ、更には呪うた。厭世観のみが雪だるまのように肥大化し、私を押しつぶしていった。
 私は神経衰弱に打ちのめされ泉が丘高校三年時点には登校拒否症に陥り、自ら国立金沢病院精神科へ入院加療すべきことを決意するに至った。
 紛れもなく、電撃ショック専用の冷たき鋼鉄製のベットに横たわったのだ。
 
 処がどうしたことか、私にはこの逆境をバネとして人生哲学や仏教入門書などに関わる著作物に飛び付き紐解く気力をも持ち合わせなかった。
 このような絶好のチャンスすら完全に逃してしまうという実に愚かにして間抜けな野郎なのす。
 周囲の状況を冷静な目で客観的に観察し判断する技量は当時の自分には完璧に欠落していたのだ。
 悶々とした心情は狭小なる生活空間の中で、いやが上にも行き場を失い随所で爆発した。
 家庭内暴力なる言葉が当時既に一般化していたかどうかは知らないが、私自身がその先駆者であったと自認せざるを得ない。
 母や弟たちに当り散らした。遣り場のない鬱積した情感を振りかざし見境もなく暴虐の限りを尽くし続けた。
 私の余りにも傍若無人な立ち振舞いに周囲の者はみな辟易としたことだろうし、皆から鬼のようだと忌み嫌われたのだった。
 父母の心中を慮る良心も度量や雅量も何もかも喪失したまま実の親たちを悲しませ苦しめ続けた。
 自閉気味に引きこもり、外部との接触を忌避する私をみなが親身で説得した。
 津田重、村本三枝、母とし、父忠勝であった。私は国立金沢病院精神科病棟での入院加療を決意せざるを得なかった。