老いぼれへぼ剣士の独り言

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昨日は鈴木大拙館へ行ってきた。
確かに標識がない。
ひとに聞くがだれも知らないという。
ようやくにして表札ほどの道案内に出会い
直進だという。
なるほど、やっぱり“即非の論理”の通りだ。
迷って当たり前だ。
簡素にして奥ゆかしい佇まい。
しかし、どことなくモダンで洗練されている。
本多の森に寄り添うようにひっそりと在った。
不用なものをきれいさっぱりと捨て去ってある。
シンプルで直線的だ。
曲がったことを好まないらしい。
何かを解説するための立て看板が一切ない。
どこにもない。
ただ目につくのは、鈴木大拙の著わした夥しい数の著作物とそこに至る原稿の類だけだ。
表装された『無』の一文字がとても目立った。
禅とは何かを、暫しの一時だけで感得できる感性も知性もわたしにはない。
どうしてもオツムのない凡人には、鈴木大拙の世界は近寄り難い威圧感を感じるだけになってしまう。
それでも何とかして、想いを巡らせようとした矢先に、まわりに人の気配がし大挙して団体鑑賞隊が闖入する。
年配の御婦人方だ。所構わずピイチクパアチク囀りまわる。
思索の場が喧騒の場に急変せり。
鈴木大拙が欧米人にこよなく禅を説かれた由縁がわからぬでもない。
這う這うの体にて退散せざるを得なかった。
 
鈴木大拙禅師も恐らく苦笑されたと思いきや、どうした事か“そんなことに囚われたり拘ってはいけないよ”と平然としたお顔でこちらを見て居られたのです。