うらなりの記《49》

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津田玄蕃の末位ではなかったが、母としのご先祖が50人扶持とか500石取りの高給取りであるとすれば魂消る次第なり。
胸中、半信半疑ながら今少し遡求しなけばならない。意地を張ってでも遣り通さねばなるまい。
もっとも、此の事を確証する手立ては今のところ何もない。
 
 その四 母とし(4)
 
津田家の人たち=その4
 
 
母としのヒイ爺様にあたる津田清三郎の血筋を、画像にて掲載した書物で手繰ってみると津田一幽近光に至った。
五代藩主綱紀に五〇口で仕えたのだという。
五〇口を別の言葉に言い換えれば五〇人扶持となる。つまり、扶持米という俸禄米を給与した五〇人の家臣団を統率したことになる。
元を正せば、山城の国出身の津田長可が祖で、その子宗九が継ぎ、次いでその子一幽近光へと続いた。
一幽近光には三子があり、長男が津田平太夫近智で五〇〇石取り、次男が津田市郎左衛門で同じく五〇〇石取り、三男が津田主馬で二〇〇石であった。
津田とし、津田全たちは次男の市郎左衛門の流れに組するのではなかろうか。
即ち、市郎左衛門=津田武平次=津田七郎=津田彦右衛門=津田金太郎近義=津田清三郎近猷まで続いていることらしい。
ただし、確証は何処にもない。