老いぼれ教師の回想記《115》

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その六  石垣の 陰に潜みし 将中や
 
習字の授業=その3
 
 何ものにも ( とら )われず ( こだわ )らずに無我の境地へ ( いざな )うことに執着し腐心 ( ふしん )もした。
只それだけが習字の授業のねらいであった。書が上達すること以上の授業の眼目を此処に置いた。
 ひたすら黙想を強いることもあった。
果たしてこれが習字の授業かと自問しながら延々と続けたこともあった。
書は剣に相通じ、剣は書に通じる鉄則を編み出した訳だ。
言うまでもなく、かの山岡鉄舟には遠く、果てしなく遠く及ばぬこととは知ってのことである。
 注意したり、いわんやお説教はなおのこと禁物で、逆効果でしかない。
 
字を習うということは
 おのれを習うということです
    おのれを習うということは
        おのれを忘れることである
 無我無心没我の境地     研造語録より
 
沈思黙考の最中、その場にそぐわない態度を見受けるとそおっと近づきアンヨをチミチミするのである。
結構痛かったらしい。効果てき面であった。忘れ物にも適用しチミチミの体罰が加わった。 チミチミの体罰は誰からも咎められることはなかったはずだ。
もっとも此れは往時の古き良き時代のことである。
今や、正座や鼻ピンをしただけでモンスターたちの餌食にされてしまうという具合の悪い時代になってしまいました。
 
 蛇足ながら、これを怪我の功名とでも申すのでしょうか、晩年に至り賀状を毛筆でしたためる習癖が身についてしまったのである。
相変わらぬ出鱈目流の下手糞には違いが無いのだが、おのれを表現できる数少ない手立ての一つなのです。