老いぼれの独り言

イメージ 1
 
先日舟田さんからビックなニュースをいただいた。
津田清三郎近猷は田中躬之の息の掛かった人物ではなかろうという。
ところが浅学非才の身、さっそく田中躬之を字引で探せば加賀藩明倫堂の名たる國学講釈御用役であるという。
歌人であり國学者でもあるという。
清三郎近猷は明倫堂で学ぶ学徒であり此の極めて著名なる師より薫陶を受けて居たらしきことが次第に明るみにでてきた。
墓石の側面に刻まれる一千字に及ばんとする漢文調の長文はどうも躬之先生の文ではなかろうかと舟田さんはまるで我が事のように急き込んで報告されたのです。
処が没年は師田中躬之が1857年(安政4年)なら清三郎近猷は1863年(文久3年)で長生きしている。
従って師は生前の弟子の偉業を称えたことになるのだろうか。
不甲斐なくもわたしは何も理解できない分からない。
此のもどかしさも手伝い自転車のペタルはおのずと長坂台から野田山に向うしかなかった。
 ヤマブキの真っ黄色が一際色鮮やかに咲き誇っている。
 清三郎近猷の脇に自生する上溝桜の大木に、これまた今を盛りに真綿のような淡白き可憐な花が無数の房になって覆い被さっていた。
 解読不明で難解極まりない碑文よりも、これら花々がわたしを歓迎してくれたようだ。