津田家のルーツを辿る≪3≫

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3 斯波蕃作成の玄蕃家由緒書に従えば、先ずは事の発端は玄蕃家9代当主津田乙三郎正矩は妻(成瀬の娘)が世継ぎを懐妊中に他界してしまった事に始まる。
10代目を継ぐ養子に津田修理正直が登場するのだが、その経緯は次のようになる。
津田玄蕃家の第二代目当主に当たる津田正忠の三男津田半亟 (はんじょう)正能 (まさよ)の三代目子孫に津田左近衛門正隣 (まさちか)なるものがいた。
左近衛門正隣は永原久兵衛の弟永原佐七郎政知を養子に致し、その佐七郎の養子に正隣は実子(次男)修理正直を配置する形で世継ぎを万全にした。
処が此の修理正直は、実父津田左近衛門正隣の次男筋なので津田徳方家へ養子入りさせ妻(中川平膳の娘)を娶り一女を儲けていた。
その所帯持ちの修理正直が、玄蕃家へ10代目を継承のため再度養子入りするのが天保14年(1843年)であったが二年後の弘化年(1845年)には不幸にして病没してしまう。
其処で、急遽リリーフ登板したのがわれ等が津田音五郎と相成るわけだが、この音五郎抜擢の根拠は、実は音五郎の妻に養父修理正直の娘(津田徳方孫女)が嫁いでいた事にある。
つまり、音五郎は修理正直の娘婿ということになる。
更にもう一つ、正隣の養子佐七郎が養子にした正直が玄蕃家へ養子入りしたので、その空席に充当されたのが外でもない音五郎其の人だったことになる。
正隣家の養子である音五郎を正直は自分の養嗣子に仕立てたことになる。
つまり、正矩の嫡子正邦が未だ幼少の身であったが故の措置であろう。
卑俗な表現で恐縮だが、お家安泰のため本家分家 (あい) (まみ)れて養子争奪戦と云おうか養子オンパレードを呈したことになりはしまいか。