うらなりの記《122》

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第四章まとめ
些かどころか大いに漫画染みた愚論に過ぎません。
野田山の頂に出で座す前田の大殿様を取り囲むようにわたしたち三人兄弟は21世紀のこんにちまで恭しくも鎮座するのです。
 それにもまして、吾らが母方津田家の清三郎近猷を取り巻く人脈から派生する意外と思しき血縁の絆を遡求しながら紐解けば何と驚くなかれ野田山のいただきに君臨する大殿様にまで行き着いてしまったではありませんか。
恐れ多くも畏くも、斯くなる荒唐無稽なる戯言をば冗談にも口にすることは憚らねばなるまい。
しかし人笑わば笑え、われ糞真面目に此の一気通貫役満倍満跳満なりと悦に入り飛び跳ね、此れ全て知友舟田氏からの恩恵なりと感謝致す処大なのです。
前田直玄・今枝直恒・前田長種・お幸・お亥(玄)らが絶妙の綱渡り的連携プレーで大技を達成したことになる。
元より、清三郎近猷正室遠藤高璟息女お鉚こそが重大なる鍵を握る人物たるや此れは言を俟たないことなのです。
なお、蛇足ながら2014年6月21日発信分、老いぼれの独り言を参照いただければありがたいかぎりです。
  
㉙それはさて置き、うらなりの張本人たる此のわたくしは一九六五年(昭和四十年)に満三十歳にして現在の妻中川容志子と結婚、長男克知次男敏文に三男道弘の三子を得た。
長男は柴野裕美と連れ添い高橋佳汰・里奈を儲けた。
次男は越野美加と共に彼らの家庭を営んでいる。
三男は大阪の地にて中嶋容子と一緒に世帯を持って高橋正嵩と双子たる長女佳央・次女奈央に加えて三女瑠衣の六人家族を囲っている。
尚、義母中川澄子は二〇〇九年三月八十九年の生涯を小野陽風園診療所病棟の病床にて終えた。
往年の栄華を極めた蓄財も愚息の放埓なる放漫経営の餌食となって全て喪失し最期は憐れというしかない。
一族にまで累を及ぼす事態に発展した事は窮めて遺憾とすべきことである。