老いのひとこと

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鶴寿苑が主催する陶芸教室は「北陶」傘下にある関係で此の際の『野焼き』実演は全てを網羅した極めて大々的な挙行と相成るらしいのです。
教室生の最も末席に位置するわたしだがせめて点火の瞬間だけでも見聞しようと喜び勇んで現地に赴いたのです。
原始時代さながらの火きり板に火きり棒を擦りつけて摩擦熱で点火を為すという「火きり法」だけでも是非見たかったのだが早々に退散してしまった。
理由は簡単だ。
兎に角、生半可な作陶意欲では一人前の陶芸人には絶対に成り得ないことに気付いたのです。
確かに、窯床を作ったり作品を並べたり大仕事だがその大方は錚々たる若衆が坦々とこなすだけではありませんか。
年寄りの出る幕が無いのです。
とは言うものの、手を拱いてじっと佇むのは唯一わたくし一人ぐらいで他の御方方は何かしらせっせと動いていらっしゃるのです。
何せ、陶芸人を目指す皆さん方は気長で我慢強くその忍耐力は只者ではなさそうだ。
何もない砂浜だけの炎天下で百数十名の熱狂的愛好者たちは延々と待っていらっしゃるのです。
情けないけど、わたしには務まらないと目立たぬように隠れるように逃げ帰ってしまった次第なのです。
情けない根性が足りん、顔を洗って出直さねばならないと恥ずかしくも思った。
 
 
その時みた内灘の浜は何故かしら、むかしに比べ砂の粒子が細かく感じた。
また、海岸線が陸から後退し逃げて行ったように実感した。
さらに、ふんわり盛り上がった柔らかい砂浜に足の裏が沈んでいくような感覚がなくなったようだ。
冷えた体を腹這いになって甲羅干しをしたむかしの感覚がどうしても甦らなかった。
足の裏が熱くて火傷しそうなので飛び跳ねるように浜茶屋まで走ったむかしの感覚も決して甦ることはなかった。
腐蝕し自然に還元する事が永遠に叶うことの無いビニールの小片が無数に砂上に漂っているのにはがっかりしたしこれでは地球が可哀想だと感じた。
何より、怖かったし掛買いの無い大自然が失いつつあることを知った。
 
板の間に御座や蓆を敷いた間仕切りだけの浜茶屋の風情はもうどこにもなかった。
デスクにチェアーとハンモック、バーベーキューセットとわたしの知らぬ間に時代は大きく動いた事を知った。
閑散とした光景は夏が終わったことをはっきり告げていたのです。
 
あの頃のわたしが、まさか晩年に至って此処内灘の海辺に『野焼き』の為に参上する身になろうとはこれ夢知らぬことなのです。
 
 
 
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