老いのひとこと

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お坊さんのお話はどうも気障っぽい上に理屈っぽくしかも分かりにくい。


騙されまいと聞いているうちにいつの間にかお坊さんの術に嵌まってしまっている。


其処がまたお説教の云うに言われぬ魅力なのかもしれない。


学校で教わった聖徳太子の十七条憲法は和を以て貴しとなしさからう事なきをむねとせよで始まり篤く三宝を敬え三宝とは佛法僧なりと教えられました。


云ってみれば、聖徳太子は我が日本国で一番最初に佛宝と法宝と僧宝を極められたお方で佛法の第一人者でいられるのだとおっしゃる。


さらに第十条では


「われ聖人にあらず彼は必ずしも寓者であるとは限らない。お互いに凡夫でしかないではないか。」


此の事を自覚すれば他人を責める心も怒る心もなくなりますと説いたというのです。


「凡夫の自覚」に到達した聖徳太子なるがこそ昔の五千圓札にも壱萬圓札にも登場なされ大変愛着を覚え慣れ親しまれたのでありましょう。


ところが昭和59年の1984年には福沢諭吉へとバトンは移り変わってしまった。


時まさに高度経済成長時代に突入し華々しく自由主義謳歌され物質文明が燎原の火となって燃え盛った。


精神文明の支えたる聖徳太子はお役御免となり市場経済より文字通り引退されたしまわれた。


金貨万能時代を突っ走りバブル崩壊リーマンショックからデフレ脱却の為金融緩和マイナス金利へ駆け抜けアベノミクス花盛りだったそうだが福沢諭吉さんは青息吐息の体ではありませんか。


国債発行残高1000兆越えを来たし聖徳太子再登場の待望論が出てきてもおかしくはないと思うのだが如何なものであろうか。


お坊さんのお説教は大脱線してしまったがとても興味深く正味60分間の時計の針は何と早かったことでしょう。


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