老いのひとこと(大阪行き)

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真葛庵



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電車の終点四条河原町まで行き途中八坂神社をぶらりと一巡しから知恩院へと足を運ぶ。
知恩院に拘る理由がわたしにはあったのです。
 
伊賀上野の藤堂家の御曹司新七郎の落とし胤「お( のぶ)」は生後間もなく此処知恩院寺侍 ( てらざむらい )をする太田垣常右衛門の元へ養女として出されたのだという。
此の「お誠」さん、二度の成婚ともに夫に先立たれ五人の幼子とも死別しついには養父と共に出家の道を選び「太田垣蓮月」を名乗って養父と共に此処知恩院の「真葛庵 ( まくずあん )」にて寓居したのだと
薄幸の「蓮月」と共にあった此の「真葛庵」を何としても見てみたかった。
女人坂を登りきった右手に「真葛庵」は在ったが残念ながら一般には公開されてはいなかった。
でも柵越えながら遠巻きに覗うことができてなによりでした。
 
なお、御影堂は平成の大修理中ではあったが読経の声に誘われて本堂に入れば僧侶たちが法然の教えを高らかに唱えられていられていた。
身もこころも荘厳なる空気に浸り切った。
 
 
深い信頼を寄せた養父にも先立たれ独り身となった蓮月は「真葛庵」を離れて現在は京都大学敷地内にある旧聖護院村に引っ越したのだという。
そして、陶芸の世界に手を染め画期的なる「蓮月焼」を編み出し、幼き富岡鉄斎少年には芸術の目を開眼させたのだという。
 
才覚に長けた蓮月に注ぐ俗人の目を避けて好んで引っ越しを繰り返し最後に辿り付いたのが「神光院 ( じんこういん )」という弘法大師ゆかりの真言寺院であったのだという。
蓮月は此の「神光院」の質素な庵にて85歳の生涯を終えられたと聞いた。
随分と僭越ながらもわたしも哀惜の念を表明いたしたく此の「神光院」を目指して上賀茂神社行の市バスに乗ったのです。
ところが何処を捜してもお墓は見当たらない。
石柱があり「蓮月尼舊栖 ( きゅうせい )茶所」と刻まれる。
どうも、蓮月さんが昔住んでいた来客にお茶を振る舞った所らしい。
そこを「蓮月庵」と呼ぶらしい、何と雪隠 ( せっちん )も残されていたがお墓だけは何処を捜してもない。
弘法さんのお寺を幾ら捜しても無いのも道理、知恩院で出家した蓮月尼なら浄土宗のお寺かと調べてみれば至近距離にある「西方寺」にあることが愚かにも家に帰ってから分かったのです。
相変わらずの頓馬野郎で近くに居ながら見落としていたのです。
50センチ足らずの簡素な自然石に富岡鉄斎直筆の「太田垣蓮月墓」の文字列を是非見届けたかった。
桜の古木も見たかった。
残念至極に存じ居ります。
 
 
 
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蓮月庵