沖縄旅日記 二〇〇七年十二月十二日~十四日
沖縄の人たちの民意がそのまますんなりとまかり通ればそれに越したことはないが事態は容易ではない。
国と県との訴訟合戦は泥沼化しわたしには全く理解することが困難です。
只云えることは「ひめゆりの塔」を知った日本人ならば基地のない基地を必要としない安穏なる沖縄を願いどんな微細なことであれ平和のために寄与致さねばならない覚悟を確と持つことではないでしょうか。
- ⑩バスは「ひめゆりの塔」を目指す。昨日とは違うガイドさんではあったが、JTBと契約する中部観光バス会社の社内教育がある程度徹底していることがよくわかる。
本土復帰を果たしたとはいえ戦中から戦後に掛け、そして二十一世紀の今日に至るまで終始舐めつづけた辛酸の数々が果たして何であったかを沖縄県民は留まる事無く再学習することを決して忘れてはいないということを知ったのです。
集団自決への軍の強制・強要を廻っての十一万県民による抗議デモを見るまでもなく、ガイドさんたちといえども歴史の真実を繰り返し学習し再教育されている事実を知ったのです。
単調なるガイド口調ではない。
延々と小半時に及ぶ長時間にわたる熱のこもる口上であった。
わたしの想像に過ぎないが恐らく彼女の祖父と祖母は六十三年前の昔に、この地にあった沖縄陸軍病院第三外科病棟で祖国のために御霊を捧げているに違いないと、そのように勘ぐってみたのである。
三十六名のツアー参加者の中で私の外にご婦人がお一人献花のための花束を買い求めていた。
目立たぬようにそおっと献花台に捧げてきたのである。
そして、沖縄に来られた喜びをしみじみと味わったのである。
沖縄に来られた充足感がじーんと胸の底から込み上げて来たのである。
沖縄に旅行に来た甲斐があったとつくづくと感謝した次第なのです。
終わり