老いのひとこと

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高橋本家の檀那寺は善行寺という浄土真宗のお寺です。


分家筋のわたしは此のお寺を引き継ぐかは未だ何ら意に介してはいない。


だから一応のところは浄土真宗の家柄には違いないが仏門に帰依したわけでもなく只漠然とした間柄に過ぎない。


従って、親鸞さんや阿弥陀さんについても実に曖昧な知識しかなく信仰心は無いに等しい。


このような好い加減な信徒さん故に知らぬこととは言え飛んでもない過ちを平然と仕出かしていたのです。


宗教観への無頓着さと仏教観への無知の為せる業に違いない。


わたしは何となくそれとなく禅に魅せられわたしなりの拙く浅はかなる智慧と行によって我が煩悩を断ち切ろうと日々努めおる。


それが徒労に終わろうがお構いなしに何時もの様にわたしの一日が始まりわたしの一日は終わってゆく。


珍しくも写経の気分に乗れば硯の前で筆を執る。


意味も訳も分からぬままに般若心経を書き写す。


カセットテープを聴く。


処がわたしはこんなことすら知らなかった。


浄土真宗徒は般若心経を唱えてはならぬと迄はいかないまでも唱えないのが建前なのだという。


他力本願は自力とは根本的に相容れないのだという。


そんな事すら知らなかったわたしだがわたしは未だ仏門に帰依してはいない身ゆえ子どものザレ事の様に遊んでいるに過ぎないのです。