老いのひとこと

イメージ 1


此のわたくし、息子らが幼き頃の授業参観には顔を出したことは一度もなかった、すべて家内任せであった。


ところが此の度は大阪の小5の孫の参観日には痛い足を顧みずいそいそと参加するではないか。


世の慣わし通りでした。


やはり、御多分に漏れることはなかったわけだ。


孫にだけは気兼ねなく愛情表現を為さねばならぬ責務をえらく感じるのです。


何故なら息子に為せなかった負い目があるからに違いない。


此の日は体育館で5年生全員が何かしら風変わりなゲームに興じていた。


館内が歓声に包まれていた。


児童の数が100名ほどで保護者がほぼ同数なら結構の大所帯になる。


割れんばかりに響き渡る。


そのほとんどが比較的お若いお母さんたちで極端に年老いたわたしは異端の存在である。


ゲームの詳細な意味合いはよく掴めなかったが向かい合う両人が両手を繋いでその輪の中に一人が入り


進行の先生が何か言葉を発すれば皆一斉にワアーと飛び跳ねて蜘蛛の子を蹴散らすように散らばってサッと新たな輪の中に一人が潜り込む。


五人の輪があったり七人の輪も作ったりもっと大勢で輪作りもする。


何が楽しいのか親も子もみなキャーキャー嬉々として遊びに興ずる。


傍観するのは悪いとわたしも仲間入りしてみたが場がシラケると思い二三回で遠慮した。


今になって思えば見ず知らずの初対面の他人とも手を繋ぎ輪を作る。


その事に大きな意義がある、いじめっ子もいじめられっ子も一緒に輪になってゲーム作りに参加し協力し合う。


異質なものの中へ身を挺して入り込み同化を図ることは此れからのグローバル化社会に資する事、トランプさんに入って貰えばいいなあと思った。


知らず知らずに打ち解けてみんなして楽しく遊ぶ。


これが今日の授業のねらいであることに気付いた。


つい最近転校したばかりの孫もお友達と楽しそうに打ち解け合っていた。


さすが洗練された都会の学校だと感心した。