老いぼれの夕雲考≪130≫

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夕雲流剣術書     小出切一雲 誌(56)


 


小出切一雲は幼くして半井驢庵 ( なからいろあん )より医術を学び古今東西学術書を漁った。


仏典はもとより孔孟の教えから宋儒の何たるかも学んだ。


成人してからは針谷夕雲 ( はりがやせきうん )より夕雲流剣術を学び文武両道に徹した一角の教養人を貫き通した人物なのです。


 


 


 


 


【又もろもろの字註、或は主一無適は敬也と知て、主一無適を勤て敬をみつるなど云ひ、或は純一無雑を勤て誠にならんとする學者却て敬誠に達し、字を註して見るときは、主一無適は誠の字也と能く聞え、純一無雑は誠の字心と能く聞ゆ、然れども字註に便りて身心誠敬には成がたし、眞實誠敬なる人は自然に主一無適純一無雑の所が有るなり、此時にこそ前賢の註の僞りならずと自治すべし、】


 


                                         


口語訳


また、諸々の文字の注釈を見ても、或いは宋代の儒学者であった程顥・程頤・朱子による修養説の中に出てくる“主一無適”は敬という文字の注釈であるといえる。


此のことを知って、“主一無適”を勤めて敬を満つるのだと言い、或いは“純一無雑”を勤めて誠にならんとする学者は、返って敬や誠には縁遠い存在なのであります。


文字をば注釈を加えて見るときは、“主一無適”は敬の字なのだと快く理解できることでしょう。


また、”純一無雑“は誠の字の注釈なのだと気持ちよく納得できるのです。


しかしながら、文字の注釈だけに頼っていては身も心も誠となり敬には成りようがないのであります。


真実、誠にして敬なる人は、おのずと“主一無適”“純一無雑”なところが備わっているのであります。


この時にこそ、昔の賢人たちの注釈に偽りのないことを自ら知らねばならないことになるのです。