高知と京都をあるく≪7≫

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高知市の郊外に仁井田という地名がある。


その鄙びた田園地帯の一角に武市半平太の生家でもあろう旧宅が佇む。


幕末以来の年月を経て土塀も朽ち果て耐久性高い土佐漆喰も土壁部分も崩れ落ち石組みが剝き出しになっている。


脇に手植えし冬柿が侘しくあるじの帰りを待っているかのように寂然と映る。


右手奥まった箇所に質素な墓石が建つ。


時代を画した勤王の志士が斯くも倹しく眠っているとは些か意外に思えた。


其処には半平太の業績を顕彰する資料館があったので少しく勉強した。


半平太には龍馬は七歳年下、共に郷士の身で遠い親戚同士だとすれば幼馴染みに相成ろう。


謹厳実直な半平太に対し自由奔放な龍馬とは対照的な間柄であったのでしょう。


半平太が画策した土佐勤王党に龍馬も一時席を同じゆうしたが余りの過激さになじめず龍馬は脱藩と共に決別したのだという。


両人共に維新の夜明けをみることなく不慮の死を遂げてしまった。


半平太は土佐藩前藩主山内容堂より主君への不敬を咎められ切腹を命じられ三の字を描いて我が腹掻っ捌いたという。


わが妻の実弟介錯相勤め心の臓を刺して止めとしたとそこに書いてあった。


享年三十六歳、龍馬は後を追うように其の二年後に凶刃に斃れたもうた。


御年三十一歳の若さと云うから両名とも余りにも惜しくはないか。