老いのひとこと

明治41年3月11日生まれの母としに執っては生誕116年目となる、奇しくも2011年の三一々と日にちは同じいではないか。

 

母と13歳年下の妹村本三枝は姉の後を追うように金沢第二高女に入り卒業した。

理由は定かでないが教師の道は踏まずに金沢市役所の吏員として児童保育に専念し市内の保育所長を転々として重きを成した。或る年には姉妹都市イルクーツク視察団の団長として訪ソまで果たした人物なのだ。

取り分けわたしらの次男が八日市保育所で随分世話になった。

「マーちゃんの坊やはヤンチャな児やったわネエー」とよく聞かされたものだ。

 

先日泉野図書館で母の高女時代の足跡を辿っていた折に偶々偶然にも奇異なる資料に出逢ったのです。

何んと叔母が第二高女の思い出文集に寄稿していたではないか。

当初は同姓同名も在りうると目を疑ったが確認の為24期の名簿の中から紛れもなく「母の妹、わたしの叔母」の名に正真正銘間違いなく出逢えたのです。

「あら、いやらしい、マーちゃん読んだの、恥ずかしいワー、でも探して呉れてありがとう、嬉しいワー」と三枝おばさんは笑っているではないか。

 

此度の図書館行きの成果があり大きな大きな収穫を沢山戴きました。

やはり舟田さんに感謝申さねばならない。

 

 

 

 

 

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老いのひとこと

大山が鳴動したけれど鼠一匹すら出て来なかった、鳴り物入りで大騒ぎして開催された政治倫理審査会ではあったが全くの不発に終わった。

政治不信は以前に増して益々深まった、自己保身の塊りのような見苦しい責任回避のための猿芝居を延々と見せ付けられた。

しかも芝居を演ずる三文役者たちの耳障りな決まり文句には聞き飽きて全く以ってうんざりした。

問い質す攻め手も精彩を欠いたし攻めあぐんだ、安倍派五人衆の一人は雲隠れしたまま所在不明、残りの4人と二階派幹部は口裏を合わせるように核心には触れずに逃げの名人振りとはぐらかし術の達人振りを見事に演じて呉れた。

かれらの曖昧な虚偽供述をネタにして幾ら追及しても其処からは眞實の供述は100%望むべくもない。

此れには尋問する側にも気付いてほしかった、攻めが甘いとしか言いようがない。

寺田議員が下村さんと森喜朗元首相との確執問題に絡めて核心に迫ろうとしたが体よく逃げられた。

惜しむらくは此の寺田君は重大な失策を演じた,彼は上背があるばかりに集音マイクと正対しなかった故に音声が割れ明瞭性を欠いた。

マイクのアングルの調整を怠ったと言うことはおのれの剣尖が敵将の突き垂から外れていることに気付こうとはしなかったことになる。

自分の語気・語勢が確と敵将下村博文には届かなかったのだ、惜しいことをしたものだ。

面白さがなかったのでせめてもの見せ場を探してみただけの話になる。

 

 

 

老いのひとこと

令和6年も早や三か月が過ぎんとす、一週間の何んと速いことまるで矢の如しだ。

丁度この一週間後に大阪の孫たちがコロナ以来四か年ぶりにやって来る、もう直ぐではないか嬉しいなあ。

その翌日には息子たちも集って山代温泉で一夜を伴に致すことにした楽しみだなあ。

 

その時には忘れずにホワイトデーのお返しをしなくてはなるまいぞ。

その折にホワイトチョコでは能はない、考えあぐんだ末にわたしの使い古しの書道道具とわたし自作の陶芸作品にでもしようかなあ。

でも弱ったなあ、硯箱は一つしかないのに双子ちゃんは揃ってお習字を嗜むお姉ちゃん優遇とは参らず難しいなあ。

そうだ硯と硯箱一式に分けることにしよう。

三女のルイちゃんには約束の自作の陶器製鉛筆立ては好い、晴れて大学に進学するマサには「広辞苑」にしようかなあ、むかしなら善い贈り物の筈なんだけどなあ。

 

 

やがて桜が咲き誇り、そして散り終えた其の頃には一番孫娘から初ひまごちゃん誕生の朗報が舞い込むのだ、もう直ぐだ、待ち遠しいなあ。

老いのひとこと

往きあたりばったりの二の轍を踏まぬように段取りを整えて二回目に挑んだ。

あらかじめ段ボール紙でミニチアセットを作り仕事の手順に無い頭をしぼった。

これが結構楽しい、和田秀樹流脳作業だ、最後の四脚をどのように取り扱うか夜中に夢のなかでうなされる有り様だ。

作業そのものは至って単純で五種類のパーツをドべで繋ぎ合わせるだけに過ぎなかろうが下手をすれば貼り合わせ箇所が剥がれれば万事休すに帰すので神経質なくらい慎重さが求められるのです。

ボケ防止の脳作業には打って付けの「高床式倉庫」作りで在りました。

小箱・木箱・スポンジ・納豆の空きケース・VHSビデオテープ・定規等々家中捜し回った。

 

切妻式の屋根がえらく急だ、分数勾配は10分の20はあろう、屋根雪下ろしは手間は省けるが茅葺屋根の雨漏り修理には手間が掛かりそうだ、台風には一溜まりもなさそうだ。

 

 

 

老いのひとこと

母は昭和18年1月に弟利治を出産後に奉職中の小学校を最後に退職したことはよく知ることだが果たして何処に勤務していたものか其れが全く分からないのだ。

 

此の歳になって不覚を執ったと幾ら嘆いたとて始まる訳でもないのだが泉野図書館で資料を漁ったし玉川で訊ねてもやはり見当たらなかった。

母の妹に当たる村本三枝が味噌蔵小学校に在学した折にわたしの母が教育実習生として顔を出したのには驚き果てたとの思い出話を良く聞かされたものだ。

 

母津田としは大正14年に第二高女を卒業し昭和18年に退職するまでの遍歴した勤務校を知る術はとうとうなかった。

とても残念だった。

 

父と母は今流の出来ちゃった婚でわたしが出生した昭和10年に入籍しその前後に産前産後の有給休暇を取得しているはずだろう、1922年には文部省令で女教師の産休が保障されたのだと云う。

昭和12年に鉄二と三度の産休で何かしら気まずかったのだろうか母は35歳の若さで早期退職したことになる。

 

手に負えないドラ息子で母には只ならぬ迷惑の掛けっ放し進学の折にも気まずい心労をお掛けしました。

せめて京都見物にお連れしたいものだと思う矢先に母は病魔骨肉腫を患い敢え無くも47歳にして夭逝してしまった、あの時には天を仰いで慟哭した。

 

泉野で「県立金沢第二高女史―真清水の心」を閲覧し往時の様子を垣間見た次第、いずれ天国に参りますれば母の女学校時代の思い出話でも聞かせて貰うことに致しましょう。

憧れの東京への修学旅行のことやはかま姿で倉が岳へ登った時のお話を是非とも聞かせてくださいませ。

お願い申します、お母上さま。

 

 

 

老いのひとこと

            無断掲載

ボケ防止のため脳作業を怠らないようにと政倫審を懸命に拝聴するのだが正直なところよく分からない、お頭の程度が知れて恥ずかしい。

 

鬼の検事さんの厳しい尋問をくぐり抜け刑事責任は免れた以上身の潔白さは世に証明されたも同然と言わんばかりに皆さん実に堂々として、肌の色つやも整い自信満々の風情でいらっしゃいます。

さすが強者揃いの政治屋さんたちだ、政治的道義的責任なんて何処吹く風と言わんばかりに悪びれる様子は微塵も見せない。

ウソ発見器にもビクともしない心臓の持主だ、その心臓にはモジャラケの毛が生えている、まるで毛の生えた心臓の品評会を見せ付けられた気持ちになった。

 

野獣にも匹敵する鋭い政治感覚の持主である安倍さんが危険性を察知しキックバックを取り止めたモノが復活する其の経緯をみな異口同音に知らぬ存ぜぬの一点張りだ。

みな御身大切、本能的に自己保全策に暗躍し躍起だ、みな好き好んで正直者が馬鹿を見ることを避けていらっしゃる。

 

政倫審出席が即説明責任を果たしたと勘違いされては困ります、17日の党大会以降に裏金処分が有るらしいが興味津々大した見物になりそうだ。

 

併せて、真相解明には森喜朗元首相の証人喚問を待つしかない、此れこそ大した見物になろう。

元凶を問い質さねば日本国の民主政治の夜明けは永遠にやっては来ない。

 

そして、其の暁には良識ある国民の多くが賢明なる投票行動に出て金権政治家たちを見事に一掃すべきではなかろうか。

 

 

 

老いのひとこと

舟田さんは実に探究心旺盛なお方だ、彼の叔母さまが第二高女を出られたらしく丁度時を同じゅうしてわたしの母も其処を卒業したことを知ってのことか彼は序でにわたしの母の所在を突き止めてくださったのです。

つまり、わたしの母の名前が記載されるページをわざわざコピーして持参してくださったわけだ。

わたしの母が卒業者名簿に名を連ね実在した何よりの証しになりましょう。

うら若き頃の母の匂いを嗅ぎ当てたに等しい、嬉しかった。

 

 

此の事を切っ掛けに父忠勝のことを調べて見ようとの気持ちに急き立てられてしまった。

先ずは文教会館で大正9年に師範本科第一部の卒業名簿から父の名前の確認を依頼したら後日返答とのことで断念、其の足で市教委の門を叩いたのだが此処では2週間後に連絡するとの連れない返事、此れでは全然埒が明かない。

 

国のトップの行政官たるあの御方と

全く同じで「やる気がない」ことを察知した。

 

ヤケクソで泉野図書館にとぼし込んでお伺いを立てれば此処では初めてパブリックサーバントらしき誠意ある態度に接して安堵した。

玉川図書館に所蔵されるとの案内を承った次第だ。

 

昼めしを摂ってからお出掛けだ、昭和17年に山越印刷より出版された「石川県師範学校同窓会―会員名簿」にお目に掛かれた。

何分、戦時のまっ最中物資不足に喘ぐ中での出版物ゆえ時の経過で以って経年劣化が極めて著しい。

腫れ物に触るようにページを開いた、真横から司書さんの鋭い目が光るのでスマホでの撮影は控えざるを得なかった。

 

其処はお役所さん、書面で申請し写真に撮る理由を明記しろという、情報提供の根拠を明確にいたす為だろうか、些か呆れ果てた。

 

師範時代の「思い出のアルバム集」で父のテニス姿は探すまでもなくなかったのだが104年の昔にタイムスリップした若かりし頃の逞しき父の雄姿にお目に掛かれたような気持ちにさせられた。

 

晴れた日には野田山墓地にて報告いたすことにしよう。