2024-04-18 老いのひとこと 如何にもみすぼらしい出で立ちでしかも危なかしい足取りでご老体が行く。 何時ものコースを辿る、薬局屋を過ぎ自動車修理屋に差し掛かれば、偶に挨拶を交わして呉れる若きエンジニア―さんではない恐らくオーナーと思しき御方が近寄り棒切れを差し出す。 見れば此れ間違いなく小綺麗な木製の杖ではないか、「どうぞ使ってください」「お貸しするのではなく、差し上げます」と薦めてくださる。 近来極めて稀有なるご奇特なお方ではないか、其の温かいご好意を素直に頂戴してしまいました。 例のスキー用ストックを突いていればこの様な好機に巡り合うことはなかったであろう。 偶々、雨傘持参から生じた幸運なる珍事で在りました。 抜群に軽い、しかもセンスが好い節目模様をデザインした高級品に映る、取っ手の部分は精巧に加工し接着され実に握りやすい。 身内の者ではなく見ず知らずの第三者様より此のわたくしは絶好の散歩のお供の提供を承りました、篤く感謝申さねばなりません。
2024-04-17 老いのひとこと 昭和34年学卒の年に菊水分校勤務の拝命を受けた、親爺さんも余程嬉しかったのかわたしに背広を新調して呉れた。 当時金沢には「洋服の青山」がある筈もなく、わざわざ老舗の仕立て屋さんに採寸から依頼しあつらえて貰った。 自負心が沸々と湧きいずる思いを新たにした、山里の勤務地には相応しくない代物だったが爾来いっちょらいの背広として大切に厳重に保管してきた。 何せ、純毛の羅紗製品でずっしり重い、気品と重量感溢れる最高級品なのだ。 当時には未だ「YKKファスナー」が世に出る筈もなくズボン の前開きはボタン付きで俗にいう「マラボタン」であった。 何んとも懐かしいオールドファッションの逸品に違いない。 先日、衣類の断捨離を断行したのだがどうしても此ればかりは決断を憚った。 併せて、新婚旅行に際し母親の弟にあたる叔父津田全氏から贈与された一着と弟利治の知人にあつらえて貰った一着もどうしても捨て難く、再びタンス入りになった。 最早、背広を着こなす機会はない、従って最早無用の長物と化したにも拘らず女々しくも捨て難いのだ。 昭和34年製は何処かの服飾博物館に寄贈しようかなあ。
2024-04-16 老いのひとこと 無断掲載 図らずも足踏み公園のベンチに佇めばあすなろ幼稚園の入園式に出くわす、好く晴れた土曜日の事だった。 我が家のベランダの窓越しに月曜日の朝、扇台小学校の入学式に登校する様子が目に入る。 馬車馬のように働いた現役時代には三人の息子たちの保育所や小学校へ同伴したした記憶は全くない、全て家内任せであった。 それがどうしたことか少子化時代を象徴するように今様は両親共々お手手をつないでやってくる。 押し並べてパパさんは黒いスーツ姿、ママさんは凡そ二三割方が和服に正装する。 驚く勿れ、月曜は勤務そっちのけだ、みな年休代休特休か長閑なものだ、此れ恐らくアベノミクスのお蔭だろうかなあ。 勿論、父親に手を引かれる子も母親だけの子も居よう、やはり小学校の方が多かったようだが此れ当然の理屈となりましょう。 其の中には父子家庭、母子家庭のお方も居ようかと思えば矢張りこころが縮む。 散歩の帰路に入学式を終えた親子連れに出逢う、髭ずらの人相の悪いジジイにはみな遠ざかるように振り向きもしない。 然もありなんと行けばお母さん連れの子から「こんにちは」の挨拶があったお母さんからも会釈を戴いた。 そんな二組の母子にはこころが和んだ嬉しかった。 善い子に育ってねと願うまでもなくきっと立派な子に成長するに決まって居よう。
2024-04-15 老いのひとこと 金沢大学角間キャンパスの資料館へ赴き、旧石川女子師範の写真資料の開示を願い出た。 例によって免許証で身分を証し戸籍謄本で母との続柄を明示して我が母親の在り処を問い質した。 1925年に金沢第二高女を卒業し同年に石川女子師範本科第一部(修業年限五か年)に入学し1930年に卒業した証を検証して頂くように懇願した。 担当の教官からは恐らく写真資料は無い筈だが卒業者名簿で確認し後日返答する旨報告を受けたのです。 数日後メールが届き胸ときめかせ目を通せば間違いなく当校に在籍せしは判明いたすも我が母に関する記載は「大正15年第二部2組」の故人の箇所に「高橋トシ(旧姓津田トシ)」の身である事実を知らされ正直愕然とした。 しかも、その名簿の閲覧すら守秘義務に反するゆえ罷りならんと余りにも冷淡すぎはしまいか。 我が母は蔑ろにされたも同然で奮然遣る方無き想いに突き放された、悲しかった。 第一卒業者名簿に当人の卒業年次の記載が無いとは此れ在り得ぬことではないか。 決して、母は在学中に死亡はしてない、母は47歳までわが生命を立派に全うしているのだ。 しかし事実は事実、母は第一部ではなく第二部2年制でしたか、母よ頑張ったなあ、改めて冥福を祈る。
2024-04-14 老いのひとこと 嗅覚までも劣化したものか、それとも香りを失った白蓮の新種なのかわたしにかその香りが伝わらない。 桜に先んじて豪華な開花の美しさを誇らしげに披露する、一斉に白き天使たちが乱舞する。 ところが生ある物体はやがては衰退し終焉を迎える、生と死が表裏一体となり目まぐるしく転回する。 白蓮は美と醜が同居する、此れものの憐れというしかない、地上に落下した花弁の亡骸は無慚というしかない。 甘酸っぱい死臭が漂うは無性に自然の摂理の哀感を誘うのです。 この情景を目の当たりにして、ふとわたしは成田悠輔氏の集団自決論を彷彿とした。 きっと其の彼も同じく此の光景を目前にして経済理論に到達したのではあるまいか、そんな気がしてならなかった。 最早、生気を失った者たちは敢えてわが生命と決別し潔く地上に向かい死のダイビングを為す、依って天下の活力に無言で寄与する崇高なる姿そのもののように映ったのだ。 成田悠輔の判断が分からぬでもない、そんな気持ちにさせられた一時だった。 されどあの暴論には近づき難い。
2024-04-12 老いのひとこと 無断掲載 列記とした名門校、嘗ての石川県立金沢第二高等女学校という実在した学校本体が其の面影を後世に伝承する系統的遺産が無い、泉野・玉川にも市教委・文教会館にもない。 ただ断片的な残滓が散在するに過ぎない実態に文化都市を自認する金沢には信じ難き眞實に些か参りました。 まさか国会図書館へ出向くわけにはゆきますまい。 1908年生まれのわたしの実母津田としは1920年に金沢第二高女に入学し1925年に卒業したことまでは卒業者名簿にて確認できたが写真資料等を求めて文教会館に照会すれば幸運にも実在するとの報に接した。 処がコピーは頑なに拒む、守秘義務を楯に顔写真は罷りならんという。 此れは公のモノではなく個人の私物の寄贈品に付きダメだという、周囲の人物を排して当人だけも承服し難いという。 孫たちへの向学のためだと押し問答したが此方が折れるしかなかった。 孫たちをぞろぞろ連れて閲覧の機会を戴くわけにも参りますまい、もはや諦めるしかないのだ。
2024-04-11 老いのひとこと 長享の一向一揆にあやかり高尾城攻略に挑んだ。 さくら晴れの快晴の朝風はヒンヤリと冷たい、9時20分に米寿と傘寿の祝事とこころして第一歩を踏み出す。 家内はまだまだ健脚だ、ふらつく身を奮い起こし一本杖を頼りに登る、恐らく此れが登り納めだろう。 兎に角、転倒だけは避けねばならない必死の思いで一歩一歩慎重を期す。 登り始めの勾配が斯くも急峻だったか些か恐れをなす、山頂近くの手摺りを見て正直安堵する、手摺り設置者の恩義に自ずと感謝す。 眼下に日本海と光り輝く城下町を見下ろし記念写真に納まる。 シャッターを依頼し拒まれた覚えはない、山頂にはみな善人しか居ない。 下りは更に慎重を期す、本能的に横向きなる、見栄や外聞もへったくれもない、丹田の衰えを自覚する。 漸く路傍に咲くスミレの美しさに気付く余裕が見えたようだ。 10時20分丁度正味60分の高尾山登頂を終えた。 万が一を考えれば最早単独行為は絶対に許されない、他人様には迷惑をかける訳にはゆくまい。 やはり、後ろの家内が支えとなって呉れたようだ。