さすがに天下の俳聖松尾芭蕉なるがゆえに魚の目にも涙がにじむ様子を確と観察なさった。
此の繊細なる感性にはひれ伏すばかりだ。
いつも通り過ぎる街角で水槽に泳ぐ金魚を見る。
時折わたしの口笛に気付いたものかゆったりと向きを変えてわたしに視線を注いでくれる。
何もかもすべてを達観したような聖人の目だ。
潤んだ目は心なしか今日は涙を浮かべたように覗える。
自由が欲しいと訴える目ではない。
狭い水槽の中で彼女に与えられた自由は体の向きを180度変えるだけの自由でしかないがそれを憂いているのではない。
何故かしら今日の目は涙で濡らしているようだ。
これは恐らく此のわたしのこころ内が此の魚にはみえるのかも知れない。
此のわたしのこころの内を察してくれているのかも知れない。
こころの優しいとても賢い魚なのかも知れない。
有りがとさんよ。
生き物としての鶏ではなく卵を産むための機械のように扱われる日本国の鶏卵業界。
狭い金網の中で自由を失った痛々しい光景と重なったが此の金魚は決してそうではない。
何もかもすべてを達観しているのです。