老いのひとこと

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もう民主主義もへったくれもない、大人気なき手法で押し切り拍手と怒声で全てが決してしまった。


反対の声なき声と反対の人数をカムフラージュしようとプラカード作戦に打って出たが虚しく潰え去った。


 


その強行採決を明日に控える火曜日の夕刻にわたしも行動を共に致そうと中央公園まで出向いた。


 居ても立っても居られない気持ちに駆り立てられてペタルを漕いだ。


 ところがあの広大な敷地を誇る中央公園はもぬけの殻同然で閑散と致すだけでありました。


 いや、確かに香林坊に面した一角には「九条の会」「憲法を守る会」「憲法会議」の面々が何時ものように日本国の窮状を訴えられていた。


 ところがそれを遠巻きに取り巻くように群衆がたむろする光景を想像したのだが駄目だったのです。


 連合傘下の労組の旗も日教組の旗も市民団体の旗も赤旗すら其処にはなかった。


 率直にわたしの善意の気持ちは空振り三振に終わってしまったのです。


 何とも言えぬもどかしさと虚ろな寂しさが募った一瞬でした。


 


 かつての土埃の舞い立つ広場はものの見事に整備され樹々も大きく成長し市民の憩いの場に変わっていた。


 連滝が音もなく壁を濡らしていた。


 云ってみれば何事もなかったかのように平然と静まり返り平和そのものの光景でした。


 そぞろ歩くうちに見慣れない銅像に出くわした。


 「自由と正義の像」とある。


 不屈の精神で健筆を揮った新聞人の面影を偲んで此の像を建てたのだとある。


 暫しその場に佇むうちに不屈の精神で以って「自由」と「正義」を尊びながら健筆を揮った新聞人とは一体何方を指すのかと考え倦んだ。


 見方によって、解釈の仕様によっていろいろ変容した「自由」とか「正義感」が生ずるのだなあとつくづく考えさせられたのです。


 


 因みに、とある紙面からは強行採決の活字を見出し得ないのです。


 国会周辺のデモの記事は小さく扱ったが果たして日比谷公園や渋谷スクランブルの取り扱いは如何であったものか。


 国論を二分する民意のうねりを此の新聞人たちの心の目にはどのように映って居るのでしょうか。


 直近の内閣支持率の微妙な変動についてもわたしの目には触れることはない。


 多種多様なる「自由」と「正義」への見定めがあることを此の新聞紙面から教えて戴いたことになる。


 だから、わたし独自の「自由」と「正義」の心意気に燃えて15日の日にも中央公園に素っ飛んで行きましたが遅刻したので散会した後でした。


 何もかも上手く行きません、とても残念に思っています。