無断掲載
いい歳抱えて情けない、本当に恥ずかしい。
此の歳に至っても何んにも知らない。
少なくとも知ろうともしなかったし何も知らぬままでも平気でいられた。
何にも知らぬまま此の世を終えても構わぬと思っていた。
それで最寄りの老人ホームの宗教講座でお坊さんのお説教を聞き始めたのだが話が難解すぎてよく判らない。
そして、お念仏を一心不乱に唱えればこころ安らぎ自ずと浄土へ旅立てるという。
これを他力本願と云うことを知った。
一方、自力本願があると思いきや此れはないのだという。
自力とだけ言い表せばよいのだという。
ただ自力の解釈を今までは其の人が自分の修行の力で煩悩を切り開き悟りの境地に到達することだと思っていたがそうではないことを知らされた。
自力は自分の力おのれの力ではない。
自力とは「自 ( おの )ずから備わっている力」なのだというのです。
つまり、自力とは「自然 ( じねん )の力 ( はたらき )」なのだと教えられた。
「自ずから備わっている自然の力」を自ら自覚するために座禅の修行を積む。
おのれを静かに見つめおのれの中に隠されている目には見えない物事の真理を見極めようとひたすら禅の修行に励む。
恐らく、真理を見極めるにはそれは厳しい修行が待っているのとだろう。
でも、此の見極めがついて来れば悟りの境地に至りあらゆる悩みや煩悩を大きな心で達観できるようになるのでしょう。
自力の最終到達点はやはり成仏する事でしょうか。
でも、自力の修行は誰しもできるはずがないので信心を諦める先に次なる他力本願に心身を委ねゆくのでしょうか。
此のわたし烏滸がましくも馬鹿々々しい「自力」の真似事を繰り返す。
でも、やれどもやれども一向に物事の真理には在り付けない。
それでも諦めきれずに片意地張って走禅、片足立禅に精を出す。
その内、身動き出来なくなれば他力本願に縋り付けばいい。
物事の真理を見極め尽した山岡鉄舟は胃癌の激痛をも達観しニコリとした顔で座禅を組んだまま見事成仏なさったと云う。