下手糞老いぼれ剣士の独り言

すたこらえっこらさと走る

週三日月水金、開館時刻を待って道場をひた走る。
座禅ではなく走る禅、とり合えず私は走禅と名付けている。走るとはいえ疾走するのではない。
沈思黙考の中、小走りにからだを動かすだけである。呼吸を整えながらからだを移動させるだけである。
次第に気が充実するに従い、あたかも道場内の全ての空気を私のからだの中へ取り入れるかの如く吸い込むのです。
その空気を私の気海丹田に充満させ、それを私の尻の穴からなるべく静かに深くはき出すのです。
それは四階建ての当館のフロアを通り抜け、更にその下の、この小坂地内の粘土質の地層をも突き破り、そこまで届かす心づもりで静かにはき出すのです。
息を吐き出すと共に首筋より血の気が下へ降りてゆき、私の頭の中は空っぽになり無の境地に至るのです。
血の気と共に全ての雑念を私は私の尻の穴からレンコン田の更にその下まで届かせるのです。
雑念を捨て去り頭の中を空っぽにし無念無想の境地を暫しの一瞬でよい、それを味わう為に私は走るのです。
勿論、雑念はそのすぐ後にも積乱雲のように湧き出るけど愚かにも私はやはり走るです。
何といっても、未だに私には走り様が足りないのです。
走ることの意義を正当化しようとすること自体が実に見苦しいことなのです。青臭くて恥ずかしいことなのです。
それでも、やはり今日も走るのです。無為無策なる徒労に終わってもよいのです。
禅の世界では只管打坐というらしい。凡人には近寄り難き世界であるらしい。
 何としてもあやかりたいものである。