下手糞老いぼれ剣士の息抜き

水戸・東京行き=中篇
今回の311大地震好文亭弘道館に残した被害の情景をユーチューブが動画で配信していた。幸いにして大破とまでには至らなかったが随所に痛々しい爪痕を残している。
幕末期、弘道館ではそれは厳しき修業に明け暮れて、一方ではその息抜きに烈公は偕楽園を与えたもうた。正によく学びよく遊べとはよく言ったものだ。
また好文亭にては身分を問わずに年老いしものたちを招待し茶を振る舞うたとの事・・・この際の大惨事に多くの被災民の方々は劣悪なる危難場所に於いて皆皆お互いに慈しみ合いいたわりあい励ましあいながら支えあったのだという。土着のコミュニテイー社会は此の烈公がもたらしたものだろうか。


その弐 偕楽園好文亭弘道館にて

鹿島臨海鉄道大洗鹿島線にて水戸市内へ、所要時間は約一時間半弱にして、料金は一五三〇円也である。
東横イン水戸駅南口店にて宿泊せり。ツイン料金七九八〇円にして、夕食はカレーライス付にして朝食には簡易バイキングである。サービスは良好なり。
親藩徳川御三家の水戸家のご邸宅に他ならず、さすが三十五万石の威容を誇る。今年は水戸開藩四百年の記念の年を迎えるらしい。
水戸市の人口が凡そ二十六万人なら四十五万都市金沢に比べればこじんまりとした感あり。
でも駅付近の雰囲気はいたって開放的で幹線道路もだだっ広く開けた感じが目立った。
何故かしら、横断歩道に信号機が設置されてはいなかった。歩行者を優先させるための措置とは言い難く、肯けない限りなり。
ただ、道路巾に比し走る車の数は極端に少なかった気がする。
水の都にふさわしく清流桜川と千波湖にお目に掛かった。那珂川水系に属すのだと聞いた。
ホテルの前にその桜川が流れ、川面の動きで無数の魚の生息を知った。自然が生きていた。
天下の三名園なら、どうしても伺ってみたかった。今、漸くにしてその念願がかなったことになる。
どちらといえば、わが兼六園は所狭しとあの手この手の技巧を労しての自然が匠の手で見事に創られている感が強いが、ここ偕楽園はこせこせせずに大様に伸び伸びと広い空間を大胆に取り入れて、自然の美しさを大胆に誇張しているのだ。
いずれも、見る者の視点にポイントをしぼり、奥深く何かを訴えようとの意欲を感じ取るのだが、もう一つの後楽園には、恐らく当方の感性のなさに起因するのだろうが心のトレモノに触れるものがなくチグハグな感慨に深けるだけなのは何故なのだろうか。
ひょっとして、背後に控える嘗ての造園の主の意気込みとか理念や哲学に関わることなのかもしれない。
なんと言っても、親藩の雄黄門様のお膝元だし、片や外様の雄百万石の矜持を示したことなのだろうか。
尤も、幕末期最後の岡山藩主・池田茂政は斉昭の九男坊ではあるが後楽園そのものは池田綱政の治世であった元禄期に造られているので水戸藩とのつながりはないことになる。
此処、水戸偕楽園は九代藩主徳川斉昭の手により造成された。
幕末に近い天保年間(一八四二年)になる。大衆と偕(共に)に楽しもうとの主旨らしい。
そもそも、斉昭の主眼とすることは財政的に脆弱な水戸藩の台所事情からして、何よりも人材の育成に心血を注がざるを得なかったのだという。
藩校として名高き弘道館藤田東湖らの力を借りて創設したことはよく納得できるのだ。
二代藩主光圀公の「大日本史」に基づく水戸学という立派な礎の上に諸々の学問・教育・研究機関が有機的に機能しながら、あたかも今日で言う総合大学に匹敵するような画期的な教育機関を創るにいたった。
蘭学を含めた人文科学・社会科学は言うに及ばず医学・数学・物理・化学・薬学・天文学・地図学に至る自然科学を総て網羅したのである。
まさに舌を巻く思い、余りに高度な内容に加えて、その難解さには恥ずかしい思いを募らせるだけであったのは私だけではあるまい。
更には武道に関しては撃剣館・槍術館・柔術館での厳しき修行、馬術や兵法もこなした。
これこそ、本物の「文武両道」と「文武不岐」を徹底追及したことと相成ろう。
弘道館記の冒頭に、「弘道とは何ぞ。人よく道を弘むるなり」と書かれる。即ち、道を弘めるものは人である。故に人は人としての道を学び、これを弘める使命を持たねばならない、という意味合いなのだ。
生半可な修行ではなかったのだろう。厳しい修行に明け暮れし、艱難辛苦に耐え抜いた代償に斎明公は偕楽園を開放したのだ。
能く学び能く遊べの言葉通り、斎昭こと烈公は藩士たちに憩いの場・余暇休養の場・息抜きの場を惜しげもなく提供し高邁なる志と英気を養わせたのだ。
当を得た、このバランス感覚には敬服する。弘道館から桜川と千波湖に面する偕楽園へと三三五五藩士たちが闊歩した往時が偲ばれるのである。
その中に、関鉄之助・高橋多一郎・金子孫二郎らの明治維新劇の脇役たちが尊王攘夷論に口角泡を飛ばしながら我を忘れて国難を論じ合ったのであろう。
紛れもなく、勤皇の志士として日本の歴史を動かした主人公たちなのである。
此処偕楽園には、百余種の花梅と実梅が四千本に及ぶという日本一の梅園が展開される。
餓死者数十万人を数えた天明の大飢饉に教訓を得て、かの烈公は天保年間に梅の移植を思いついたのである。
天保の飢饉に見事対応したわけだ。梅には三毒を断つという効能があるらしい。
抗菌・殺菌・解毒の作用を梅干が果たしてくれた御蔭で飢饉を乗り切ったのだという。
晋の武帝の故事にいう「文を好めば則ち梅開き、学を廃すれば則ち梅開かず」から梅の木の異名を好文木とした。
斎昭は梅の園の中に別墅(別荘)としての好文亭を営んだ。
けれども、そこは己一人が楽しむ所ではなく、言うまでもなく民衆と偕(とも)に楽しむ所であるとしたのである。
趣深い部屋が数多くあったが、中でも取り分け東塗縁広間と西塗縁広間に注目した。
今日、後期高齢者医療制度なる悪評高き言葉が独り歩きして罷り通っているのだが、嘗て水戸藩にて八十歳以上の士分のもの、九十歳以上の農工商なる庶民のものは藩主斉昭公からのご招待に与かり、この二つの広間にて手厚き歓待を受けたのだという。なんと言う、心優しき心温まる配慮ではなかろうか。
さらに、この広間に接する対古軒と称する四畳半の小部屋の額に、烈公直筆の歌が掲げられている。
「世を捨てて  山に入る人  
  山にても  なお憂きときは  ここに来てまし」
いまの為政者には、その片鱗すら見受けられないではないか。義憤禁じ得ぬ次第なのである。
急な階段にて三階へ昇れば、そこは楽寿楼と呼ぶのだという。寿を楽しもう。まさに敬老の心情なのである。
極めて、短絡的感慨だが水戸市民に羨望の念を禁じ得ない次第なのです。
眼下に広がる千波湖を望む遠景に目をやり、吹き抜ける薫風を肌で感じ取って、再び感慨を新たにし、その余韻に浸ったのでした。
そういえば、拝観料がシニアには免除されていたことを思い出した。至れり尽くせりなのである。


烈公の  文武の道行く  皐月かな
弘道館  凛と咲く  菖蒲かな
薫る風  千波湖渡る  水戸の朝
五月晴れ  好文亭にて  気分晴れ