下手糞老いぼれ剣士の息抜き

311大地震は武道の聖地鹿島神宮に佇む高さ10メートル重さ100トンの大鳥居のみならず居並ぶ60基に及ぶ石灯篭をなぎ倒していった。
大自然の猛烈なる威力は武神をも冒涜した。
何年か前に鹿島の森に憩うたことがありました。


水戸・東京行き=前編

その壱 鹿島神宮にて

二〇〇九年五月十三日《水》、朝六時八分発はくたか一号にて出発、八時四十一分越後湯沢にて上越新幹線Maxとき三一〇号に乗り継ぎ、九時五十五分には東京駅着である。
間を置かずに、八重洲口バスターミナルより一〇時二〇分発関鉄高速バスにて鹿島神宮を目指す。
鹿島アントラーズの本拠地ゆえ一〇分間隔の便だ。凡そ二時間の乗車で昼過ぎにはもう目的地である。
遠い彼方のように感じた武道発祥の聖地へも六時間の道程であった。
剣を志した以上は一度は伺ってみたかった。けれども決して信心あらたかな方ではない。とにかく、概容を一瞥して置きたかったに過ぎないのである。
況や、戦勝祈願には無縁だし、大願成就といっても、最早願い事も尽きてしまった。
ないない尽くしで大いに結構、此処まで来たら、せめて死を直前にして何の恐怖心もなく逝けるように、やはり剣の修行の道をお願いしないわけにはいかないだろう。
この鹿島神宮について、日本書紀には神武天皇即位の皇紀元年に建立されたという。紀元前六六〇年にあたるという。神話の世界だが、信じるしかない。
祭ってある神は武甕槌神(たけみかつちのかみ)であり、天孫降臨に先立って出雲の国譲り交渉を大国主命と交わした、当の神であるのだという。
武の神様として先史以前より皇室及び藤原一族より崇敬を受けてきたのである。
更には、鎌倉時代以降の武家政権からも厚い信仰を受けて、より篤き庇護の下にて存続した訳だ。
因みに、楼門は水戸初代藩主徳川頼房(家康十一男)が奉納せしものであり、本殿と拝殿は二代将軍徳川秀忠による奉納であり、また奥宮は一六〇五年(慶長十年)に徳川家康が奉納した本殿を元和の造営の際に奥宮として引き遷したものであるという。
数々の宝物の中で、国宝に指定される布都御霊剣(ふつみたまのつるぎ)は刃渡り二メートル二十五センチ、全長二メートル七十センチに及ぶ巨大なる直刀なのである。
他にも所領の寄進がたびたび繰り返されたことは言うまでもない。
なお、宝物館の裏手の奥まった箇所にひっそりと武徳殿が佇むのである。
そこには山田次郎吉直筆の扁額があった。百錬自得の文字が躍動していた。
ご立派な師範が白装束のお二人の外国人剣士に手解きをなされたいた。
気合の籠もるしかも気位高い、実に円熟した演武を拝見した。全剣連制定居合いであった。
惜しむらくは、法定の形、もしくは直心影流に関わる刃挽き、丸橋にお目に掛かることが適わなかったことは些か残念ではあった。
何はともあれ、鹿島の森と称するその境内の広さに圧倒される。
まさに、太古の御世より生い茂る常緑広葉樹林が叢生する様相は圧巻だ。特別天然記念物に値しよう。
その敷地たるや、七十万平方メーター、二十万坪で東京ドームの十五倍だという。
すぎ、松、タブの木、クスノキをはじめ一千種に及ぶ植物がのびのびと自生している。
中でも本殿裏手のご神木の杉の樹は樹高四十三メートル、樹齢千二百年だ。
緑陰には鹿が遊び、緑のシャワーがふんだんなく降り注ぐなか、心ゆくまで森林浴を満喫した。
また、そこは鹿島灘に面した鹿島臨海コンビナートに他ならず、とりわけ住友金属工業のサッカーチームがJ欺蠡阿亮島アントラーズに他ならない。
新旧相反する事象がごく自然なたたずまいの中で同居し、両立しているのである。
風薫る  太古の森に  神宿
新緑に  武神たたずむ  鹿島宮
神殿に  刃音涼しく  聞き澄ます
緑陰に  おわす朴傳  事も無げ
秀綱が  通いし参道  杉落葉
御手洗に  映す鳥居や  緑なす