うらなりの記《27》

 
 
父はなかなかの達筆であった。息子がいうのもおこがましいことだが、わたしはいつもその書体を真似て書いていたものだ。三馬小の校長先生に直々お願いしコピーして頂いたものだ。
オヤジよ、ブログとやらにあなたのことをずけずけと書いてしまったけど悪く思わないでくださいよ。
 
イメージ 1            その三  父高橋忠勝(6)
 
 此処で暫し、父の職歴と共に記述をすすめる。明治三十三年(一九〇〇年)生まれの父忠勝は大正九年(一九二〇年)に二十歳にて石川県師範学校本科第一部を卒業し 金沢市 松が枝町尋常小学校の訓導として奉職した。初任給は四拾八円であったという。
 次いで大正十二年(一九二三年)に野町尋常小学校へ配置換えされ、昭和十四年(一九三九年)には馬場尋常小学校へ換わった、昭和十七年(一九四二年)には馬場国民学校の教頭職を得た。四十二歳である。
そして、昭和二十一年(一九四六年)には新竪町国民学校の教頭になった。その年に私は同じ新竪町国民学校の五年一組に在籍したことになる。
学制改革のあった昭和二十三年(一九四八年)には 金沢市 立百坂小学校の校長職を射止めた。父四十八歳の時である。
更に、昭和二十七年(一九五二年)には 金沢市 立大浦小学校校長へと勤務校を換えた。