うらなりの記《24》

 
 
 
表題を”うらなりの記”にした。我が秘め事をあからさまにして何の意味があろう。我が妻子はもとより孫たち、もちろん親類縁者にも知らしめてはいない。
三文の得にもならないし、まったく無意味そのもの。のみならず
おそらく、周囲のものたちに与えるダメージは計り知れないものがあろう。
ましてや、それをおおやけにした。極めて限られた微小なる空間であってもおおやけはおおやけに違わない。まったく意味不明でナンセンスだ。気違い沙汰だ。でも 、何もかもあからさまにして、きれいさっぱりする。311を機にして・・・
 
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その三  父高橋忠勝(3) 
 
 新竪町小学校の通知簿には栄養失調の診断を校医の医師より宣告されている。
 小学三年時の身長は一一七・〇センチ、体重は二〇・四キログラム、胸囲五七・三センチとあって、栄養状態は要注意であり栄養不良の診断のもと今後とも要養護とある。
それでも三年時の欠席日数は十六日、四年時には二三日と意外に少ない。
ところが、此の栄養状態の記載事項が次年時以降は斜線が施され一切記録が無いのである。敗戦時を迎え、最早私一人の問題ではなくなってしまったのかもしれない。
 水中眼鏡のようなサングラスを掛けて、パンツ一つで特殊なカプセルの中に閉じ込められ太陽灯の照射を受けたことをよく覚えるのである。虚弱児だけがそこへ入れられた。
幼心に、とても惨めな引け目負い目を感じ取ったのだ。甚大なる恥辱的コンプレックスを味わった。私は病弱にして憐れなほど痩せこけ正に骨皮筋衛門に違いがなかった。
 戦時体制下において、使い物にもならない日本男児として随分恥ずかしい思いをしたものだ。
とりわけ共々教師であった父と母には真実にすまないことだとつくづくと思った次第だ。