老いぼれへぼ剣士の夕雲考《83》

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   飯篠長威斎ゆかりの香取神宮                 愛洲移香ゆかりの鵜戸神宮    
夕雲流剣術書        小出切一雲 誌(9)
 
⑦ 【上泉は世間の流にすぐれて所作上手にて、道理も向上なるによりて諸人信仰す、初めは神刀流なれども、所得の事有って神陰と流の名を改めて、諸國を修行して、後は伏見の里に住居して、秀吉公の旗本其外の諸士に兵法を指南し、弟子三千人に及べり、】
              口語訳
 
 そんな中にあって勿論、上泉伊勢守 ( かみいずみいせのかみ )巷間 ( こうかん )知らぬものがいないくらい名高く、その身のこなしやしぐさは実に洗練され、格式や礼儀作法も最高なので多くの人たちから篤く信頼されたのでした。
 とにもかくにも、秀綱は少年の頃より剣を好み、取り分け千葉県は下総の国の人で天真正傳 ( てんしんしょうでん )香取神道流の開祖である飯篠長威齊 ( いいざさちょういさい )と、もう一人は九州の鵜戸神社 ( うどじんじゃ )の岩屋に籠もって編み出した愛洲 ( あいす )陰流の元祖、奥州の人とも伊勢の人とも語られる愛洲移香 ( あいすいこう )の、この両人からの大きな影響と絶大なる薫陶 ( くんとう )を受けたことははっきりと断言でき得ることなのです。
 取り分け、愛洲陰流からの影響が大きいのであります。
 この二人の者は共に、その当時には敵をぶった斬りする殺伐 ( さつばつ )たる人殺しの術を高尚 ( こうしょう )なる哲学の領域にまで昇華 ( しょうか )させ、この時代に一つのエポックを画した人物に違いがない。
 この偉大なる双璧 ( そうへき )たる剣の最高峰から、夫々の流儀の免許皆伝を受けて、秀綱はおのれ自らの流派を神刀流から新陰流へと呼称を改めたのであります。
 他にも、鎌倉の僧念阿弥 ( ねんあみ )慈音 ( じおん )(慈恩)が開いた念流や鹿島の塚原卜傳 ( つかはらぼくでん )新当流 ( しんとうりゅう )からの影響も加味されたのです。
 織田信長武田信玄からの仕官の誘いをも断り、諸国を行脚しながら修行を重ね、天下に新陰流(原文は神陰流)を流布したのでした。
 一五六九年は永禄十二年から元亀二年の一五七一年にかけて京都にて室町足利将軍義輝や義昭以下に軍師として軍配や軍法を授けたし、また豊臣秀頼公の旗本や諸侍に兵法を指南したりして、その弟子の数たるやなんと三千人に及んだという。