下手糞老いぼれ剣士の息抜きです

水戸・東京行き=後編


その参 皇居東御苑靖国神社にて

 水戸駅北口九番乗り場より、午後一時発のJR高速バスにて東京駅日本橋口へ向かう。二時間半くらいの道程だ。料金は二千八十円で電車の半額で済んだ。
 皇居東御苑へは徒歩にて十五分、大手門より入る。江戸城へ正門より入城したことと相成る。
 江戸幕府のその権勢の大きさをいやが上にも感じ取らざるを得ない。
 併せて、明治以降の現人神への近寄り難き隔絶感と、その後遺症的感覚がどうしても尾を引く。
 畏れ多くも畏くも、勿体無き思いがどうしても見え隠れする。
 革新的人間を自認していても、やはり戦中派人間の弱みが露呈してしまう。
 初夏の日の夕刻に三三五五訪れるカップル、とりわけ外国人の若きカップルが目立つ。
 確かに、欧米諸国からの観光客の方が多かったかもしれない。家族旅行と思しきグループをよく目にした。
 円高に振れるこのご時勢にもかからわず、よくぞ参ったと感心した。
 多分彼らは、この庭園が日本国の象徴的存在であることを事前学習で仕入れてきたのでしょう。
 大都会の表玄関の直ぐ横にかくも清閑なる大自然が広大なる面積で以って鎮座しているとは、これは誰しも不可思議に映るのは当然だと思うのです。
 御当主、明仁天皇が植物にご造詣が深いだけあって園内の樹木に名札を添えてあるのには甚く感心した。
 特に、各種の竹を一箇所に網羅していた。あたかも植物園そのものであった。
 各都道府県の所縁の樹木を一堂に集めた試みも面白かった。
 今や、芝生の原っぱと化した大奥の跡地に天璋院篤姫の面影を追い求めはしたものの、回りを取り巻く林立する高層ビルが邪魔をして適うことはできなかった。
北詰橋門は嘗ては、城内での変事に際しこの橋を跳ね上げて通行不能とする戦略上のからくりがあったのだという。
 もちろん今は、その機能はない。人通りも絶えた寂しげなこの門を出て、しばし行くと日本武道館に突き当たる。若者がたむろしていた。何かコンサートの開催中らしかった。
 本日最後のお目当て、靖国神社へと急ぐ。そこは、また法政・東京理科・上智二松学舎などのキャンバスがぐるりと取り巻いている。
 名に古る戦争神社に初めて踏み入る。馬鹿でかき大鳥居と大村益次郎銅像が威圧的に真上から見下ろしている。
 いや、見下ろされているといった方がより適切ではなかろうか。
天皇直属の日本陸軍の創設者であり、徴兵令を敷いた張本人なら当然此処では威張って居て当り前。
上野の山の西郷隆盛像と面と向き合って対峙しているのである。この両者、今も睨み合うのである。
戊辰戦争では官軍を率いた総大将でありながら、西南戦争においては明治政府に反旗を翻してしまい朝敵と相成り逆賊と化し、遂には国賊となってしまったが故に、西郷南洲翁はこの靖国とは無縁の存在となってしまった。
つまり、天皇と時の政府や軍部・権力者に迎合し、彼らの企てし戦争にて見事殉死しない限りこの神社に祀られることはない。
今次大戦に限ってみても二百三十万人の兵士の尊い命が国家に捧げられた。一般市民の犠牲者は八十万人を数えるという。
そして、この靖国に祀られる英霊は総数二百四十六万柱、内大東亜戦戦争に関わる数が二百十万柱に及ぶ。
益して況や、A級戦犯も合祀されと言う。当然のことながら、屍を共食いした兵士も、共食いされた餓死兵もその数に含まれよう。
しかしながら、これまた当然のことながら、一般人の犠牲者は勿論の事、戦死兵の中にも合祀を疎んぜられた二十万余の数は何を意味することか。
不本意ながらも意思に反して合祀され、この靖国を忌み嫌う存在のあることにも肯かざるを得ない。
二度と繰り返してはならない、この忌まわしき戦をこの地上より永遠に追放するためには、戦争犠牲者を須らく全員を弔う国立墓地を早急に造ることであり、其処にて日本人みんなが反戦の誓いを繰り返す以外に方法はないのだと思う。
遊就館に近付くにつれ、不気味な死臭で次第に目の前がくらくらし始めたので敢えて入館を断念した。

 拝殿に手を合わす暇がなかったのだが、母としの実弟津田二郎陸軍伍長が一九三九年(昭和十四年)に中華民国山西省にて見事戦死いたし此処に魂が居ます事ゆえ、丁重にご挨拶申して置いた。
二十三の若き命が奪はれてしまっているのだ。母方の叔父に違いない。身内で唯一この靖国に関わる人物なのである。



江戸城址  玉砂利踏みし  初夏の夕
かきつばた  気位高く  凛として
靖国に  御霊捧げし  八一五
血の涙  涸れてかすれて  炎天下
血の臭い  澱みし暑気に  昇天す


その四 葛飾柴又と浅草寺にて

九段下より営団地下鉄に乗り飯田橋にて銀座線に乗り換えて池袋へ。
二日目五月十四日は東横イン池袋北口凝垢砲峠蒜顱ツイン料金九千二百四十円で昨日より割高。夕食のサービスなし。眼下にはネオン輝く夜の巷が展開している。

三日目十五日(金)
上野へ出て、京成電鉄にて葛飾柴又へ、瘋癲の寅さんを捜し求めてそぞろ歩く。
帝釈天への参道は映画のセットそのまま、決して今様の新奇なものを血眼で捜し求める流行の世界とは縁遠い。
ゆったりとした、庶民感覚に満ち満ちたレトロな町並みの雰囲気は絶品だ。草団子を頬張る。
粋なポーズの寅さんに駅前でひょっこり出会った。ラッキーだった。
江戸川べりの矢切の渡しは時間とお金の都合で割愛した。
浅草へ出て雷門から浅草寺へ、ご他聞に洩れず仲見世は雑踏の渦、人また人、何処からか湧き出るように際限なくうごめき騒ぐ。
老若男女、年寄は肩身が狭そうに隅っこに追いやられ、若者が我が物顔をして闊歩する。
平日の昼日中、仕事もせずによくも遊び深けるものだと呆れるばかり。
修学旅行の中高生、羽目をはずすはこの時と、そのマナーの悪いこと。中には躾け良好と見る立派な学校もあるにはあった。
また、人種のるつぼの様に種々雑多な外国人たちの様ざまな顔かたち、皮膚の色、体形のバラエテー、放つ言語見飽きることはない。
そうこうしている内に家内が行方知らず、雑踏の渦の中に完全に消えて行ってしまった。
紛れもなく逸れてしまった。待てど捜せど行方知らず。
その間小半時も経ったであろう、憮然たる面立ちで突然目の前に、夫婦の絆とは何ぞやと随分考えさせられる出来事であったわけだ。
何もかも省略して、隅田川を川下りして浜離宮へ、初夏とはいえ川面を渡る海風は全身を凍らせた。
築地市場とは何たるかをとくと見学して、銀座へ飛び銀ブラをしながら有楽町を横切り、そこには直ぐ日比谷公園が現われた。
桜田門をしかと目に焼き付けてから二重橋にて記念の写真を忘れることなく東京駅へやっとの思いで辿り着いたわけだ。
万歩計を身に付けていたならば、さぞかし十万歩近くに及んだかもしれない。
ただただ、根気よく歩いたものだ。

若葉萌ゆ  柴又参道  いそいそと
帝釈天  集う善き人  夏祭り
仲見世や  寄せる人波  夏日かな
浅草寺  参る熱気の  人いきれ
逸れ人  血迷うほどに  玉の汗