下手糞老いぼれ剣士の夕雲考《10》

直木三十五氏は昭和9年に43歳の若さでこの世を去った。結核性脳膜炎だったという。
実に夥しい数の著作物の中で何故かしら一際「剣法夜話」に惹かれた。
此れは昭和30年に世に出た。没後20年空白の期間について市立泉野図書館、県立図書館、更には金大付属図書館、最後には大阪の直木三十五記念館にまで問い合わせを致せどもいずれも調査検討すれども詳らかにはしていただけなかった。
おそらく、氏が生前に暖めていた原稿をどなたかお弟子さんが収録なされたものだろうが、その間の経緯をもう少し知りたく存じた次第なのです。
物凄く莫大な史料が脳内に充満し一気に原稿用紙に吐き出された。
一時間に10枚くらいで記録は16枚であったいう。
それも机に向かってではなく多くは寝そべって執筆されたのだという。
剣術に、これまた驚くべき造詣が深いのだがご自身の趣味は囲碁将棋にマージャンぐらいで剣術とは無縁。
ただ、刀剣を少々骨董の品として愛玩されたらしい。






直木三十五は夕雲をどのように観察し評価したか

 直木三十五氏は「剣法夜話」の中で、針谷夕雲と小田切一雲のことを随所で紹介するが押し並べて相討ちの業師として捉えているだけのようだ。
 武士たるものが一たび刀を抜けば、己が死するときである。
 併せて、その時には相手も死するときであろう。相手を斬る代わりに、己もその場で斬られる。
 取りも直さず、討ち死にするは当り前のことで、相討ちの覚悟を強調し美化するのである。
それは、武士にとっては決して恥なことではないと明言する。
それにしても何時までたっても、性懲りもなく強き剣士には負けてしまうような剣術をいくら稽古してみても埒が明かないことではなかろうかとも言う。
依って、剣の実力者と対峙し命を賭して勝負を挑むとすれば、上段からの相討ち以外には生き残る術はないのだ決め付ける。
ゆえに、相討ち覚悟の稽古が肝要であり、流祖上泉信綱公もそのように言っていたではないかと指摘する。
このことが剣の究極的到達点であり最後に頼りになるのは、己の心であり、己の意志なのであると言うのである。
処が、何故かしら、直木氏はお目当ての相抜けについては一切何処にも触れてはいない。
相討ち=合打ちの表現はあちこちで見られるが、眼目たる相抜けの言葉には終ぞお目にかかることがないのだ。
直木三十五氏は43歳の若さでこの世を去った。結核性脳膜炎だったいう。
つづく