老いぼれへぼ教師の回想記《13》

若かりしころ、大人社会の戸口に立ちおっかなびっくり中を覗き込んだ思い出話である。
ほろ酔い加減を知らされ、またほろ苦き酒の味を知らされたときでもあった。
終生の友との付き合いは長いが最近はめっきり量が減ってしまった。




いわなと水浴び

 岩魚ほど高貴にして獰猛でしかも俊敏で、かつ美味なる魚はいない。最初に菊水分校に赴任した当夜、末岡主任に随行して着任挨拶に区長宅、PTA会長宅、内川農協宅、コサとタエモン宅などを矢継ぎ早に梯子酒に及んだ。それぞれにて最大級のもてなしを享受した。
 とりわけ、岩魚の歓待がすごかった。私には生まれてこのかた、この種のさかなにお目にかかったことはなかった。囲炉裏端で竹串に刺された巨大な塩焼きの味は別格であった。
 更に、それが骨酒に変化した。当初は小心者らしく遠慮がちに嗜んでいたが、ついつい酔いが回るにつけ酩酊の域に入っていった。それでも強がりを装い、大皿のコツ酒を呷った。
 それでも案外自分なりに意識は持ち続け、足取りはいささか覚束ないまでも起伏に富んだ夜道を歩いた。
 挨拶回りがまだ続くのだと知ると、酔い覚ましの為私は周りの制止を余所に内川の本流へ身を投じていた。もっとも私の背丈よりは浅かったが急流の箇所もあり、何よりも雪解け水で水温は低かったに違いない。
 その時私に救いの手を差し伸べられる人は彼女以外にはいなかった。何故ならば、その時一番自制心を最大限働かせることが出来た人物は沢田朱美先生以外にはいないはずだ。
 日本海まで流されることもなくまた心臓麻痺であの世へ行き損ねたことに感謝したい。
 粟が崎小学校との交換学習で大規模な川干しを長老の指導のもと行い、大漁だったことも思い出す。
 父なるだい自然に逆らう行為に対し天罰を受けることもなかったことに感謝しよう。
 今は亡き中西政雄君や中村正男君らと一緒に夜川に行ったことも懐かしい。今一度内川の主たる神秘的な岩魚たちにお目に掛かれる日が訪れることを乞い願ふ次第なのだ。