下手糞老いぼれ剣士の独り言(その1)

年を取るとだんだんずうずうしくなり、ずけずけとものを言うようになる。
そういうわけだから、お前さんは何にもものを知らないくせに知ったかぶりしたりもったいぶってものを言うのだと揶揄されましょう。
それでもまあいいでしょう。
でも現今の日本国の様子を見ると目に余ることが多すぎはしませんでしょうかね。
狂ってしまいましたね。
余りにもひど過ぎますよね。
わたしは、もとより此のもったいぶりと知ったかぶりが大嫌いな人間なのですが敢えてそれでもいい、下手糞老いぼれ剣士は以下のことを提言いたします。
断っておきますが対象はあくまでも初々しき修行初心者なのであります。



剣道は「礼に始まり礼に終わる」という
1 剣道はどうしてむやみやたらとぺこぺこ頭を下げて礼をしなくてはいけないのだろうか。
先ずお互いに立礼(りつれい)をする、先生には正座(せいざ)して座(ざ)礼(れい)をし、さらには蹲踞(そんきょ)の礼もする。
つまり、盛(さか)んに「おじぎ」をします。「おじぎ」の連発(れんぱつ)です。
もちろん、おじぎは相手の人を敬(うやま)う気持ちがあるからこそするのです。
2 ところが、剣道のおおもとを辿(たど)ってみれば相手の人を敬(うやま)うどころか逆に相手に殺意(さつい)を持って
息(いき)の根(ね)を止め合うことでありました。
したがって、剣道は「礼(れい)」とはまったく正反対(せいはんたい)のとても野蛮(やばん)な見苦(みぐる)しい行(おこな)いだったことになる。
3 それではいけないと、昔の多くの武士たちは反省しながら修行(しゅぎょう)を積み重ねました。
  剣術を修行するだけではなく、心の修行としてそれは難(むずか)しい学問を徹底的(てっていてき)に勉強したのです。
  お釈迦(しゃか)様(さま)の教えである仏教(ぶっきょう)、とりわけ達磨(だるま)さんの説(と)いた禅(ぜん)の教(おし)えのみならず、孔子(こうし)さんや孟(もう)子(し)さんの教えである儒教(じゅきょう)の教え、さらには老子(ろうし)さんや荘子(そうし)さんの説いた道教(どうきょう)の教えなど数々の難解(なんかい)な学問に真剣(しんけん)に取り組みながら、人(ひと)殺(ごろ)しの術(じゅつ)でしかなかった剣術(けんじゅつ)を立派(りっぱ)な剣道にまで仕上げていったのです。
  野蛮な殺人(さつじん)行為(こうい)でしかなかったものが、今や立派な武道として認(みと)められるようになりました。
  論(ろん)より証拠(しょうこ)に来年から全国の中学校、高等学校で武道が必修(ひっしゅう)科目(かもく)として教えられるのです。
4 特に剣道には理念(りねん)が掲(かか)げられている。「剣道は剣の理法(りほう)の修練(しゅうれん)による人間(にんげん)形成(けいせい)の道である」と謳(うた)われている。
 ここでは決して、剣の理法の修練を成(な)し遂(と)げられた人、つまり剣の名人(めいじん)や達人(たつじん)とか試合(しあい)巧者(こうしゃ)なる者、もしくは高段者(こうだんしゃ)といわれる者だけに人間形成が約束(やくそく)されるのだと狭義(きょうぎ)に解釈(かいしゃく)すべきではない。
  いや、むしろ下手糞剣法(へたくそけんぽう)の遣(つか)い手であっても剣の理法の修練を成し遂(と)げんと一生懸命(いっしょうけんめい)に剣の修行に日夜(にちや)励(はげ)んでいる者にこそ人間形成が約束されねばならない。
 言葉(ことば)を代(か)えて言えば、剣の理法の修練の結果(けっか)を見事(みごと)手に入れた人たちより、目下(もっか)営々(えいえい)として黙々(もくもく)と剣の理法の修練に励(はげ)み続(つづ)ける過程(かてい)に於(お)いて汗(あせ)する人たちの方がずっと素晴(すば)らしいと思うのです。
 「礼」を知る人「礼」をたしなむ人、剣道を通して真(しん)の礼儀(れいぎ)の何(なに)たるかを体得(たいとく)し得(え)た人こそが本(ほん)物(もの)であって、いくら試合(しあい)巧者(こうしゃ)であっても礼儀知らずの者は問題外(もんだいがい)だ。