下手糞老いぼれ剣士のルーツ《17》

 
 わたしのじい様は昭和3年に66歳で亡くなっている。わたしの生まれる前だ。
 従って、今わたしの孫たちがじいちゃんとかかなざわのじいじと言って寄り添ってくれるようなことは元より知らないし顔をも知らない。
のみならず、思い出などもあろうはずがない。
 でも、その事が結構悔しい。残念なのだ。
 今や、それを知る手立てすら失ってしまった。息の掛かったちょっとした遺品すらない。寂しいのです。


第2章  わたしを取り巻く人たち

その一  祖父 高橋勝太郎

 祖父の名は高橋勝太郎である。精路政之丞の長男として、文久二年(一八六二年)五月一日に金沢の池田町立丁五番地で生まれた。まだ蛤坂へは移ってはいない。
 実を申せば、この祖父についての生前の生立ちや足跡とか経歴等について何一つとして父忠勝より聞いてはいないような気がするのだ。あるいは、父忠勝より幾度となく素晴らしき逸話の類いを聞かされたのにもかかわらず、わたしの意識が稚拙であったばかりに記憶に留めていないのかも知れない。聞く耳を持たなかったのだとすればはなはな以って遺憾とせねばならない。
 祖父もご多聞に漏れず士族の商法よろしく駄菓子屋を営んだらしい。新竪町小学校のグランド裏門から新竪町商店街通りへ通じる個所にその店があったのだという。いかにも厳めしい面構えで儲け話など度外視した馬鹿正直な値付け商売で瞬くうちに閉店へと追いやられてしまったのだいうエピソードを父から度重く伺ったことを思い出す。
 その後は警察官の道を歩んだのだという。警官として雄雄しく生きたことはそれなりに評価され誇りとしてよいことに違いない。もとより典型的な凋落士族のパターンを踏むことに成ったとは決して口にすべきだはないし、その必要もない。
それ以外の、祖父勝太郎にまつわる話を知らない。遺品や遺物の類いもない。精路政之丞のそれが曲がりなりにも多少見られるに反し、何ゆえ祖父の分がないのか不思議でならない。転居のどたくさにまぎれて紛失したとしか考えられない。極めて残念なことだ。
 決して痴がましいことを言うつもりはないが、この高橋家の概要を記録に留めようと試みるのも祖父の姿に誘発されてのことだと敢えて断言しよう。
 今日ほど、おびただしい情報を大量に伝達する必要性のない時代ではあったにしても、やはり寂しい。
祖父という極めて身近な先人の生き様から生きた教訓を学び取り、直に生かす術を持ち得ないことは、やはり何といっても寂しいことなのだ。
 わたしの生誕より七年前の昭和三年十月十九日に池田町一番丁二十七番地にて六十六歳の生涯を終えた。法名釋圓祐にて高橋家の野田山墓地で眠る。