老いぼれへぼ教師の回想記《17》

僻地校から尾山の名門校へ、武者震いしながら幾多の試練に遭遇するのでした。



其の二  紫錦台 気ままに生きて 小手試し


渡り歩いた分校生活(前)

 戦後のベビーブームの申し子たちが中学生に成長した。謂う所の団塊の世代に違いない。いずこも、収容し切れない新一年生を本校とは別棟の分教場へ移した。兼六中の旧校舎に小将町中と紫錦台中の一年生が同居して入った。
 私は最後尾の十二組を担任した。男子三十名女子二十四名という驚異に値するすし詰め学級であった。社会科の六クラスに道徳、ホームルームで二十六時間はやはり負担だった。
 そのことより、山間の僻地校からいきなり名門校に転任し、教科の授業に梃子摺ったし腐心もした。教材研究に明け暮れした。死に物狂いだった。
しかし、何といっても通り一遍の講義調の授業ほど聴いている生徒たちにとって退屈でくだらないものはなかっただろう。
 それは、子どものまなこに如実に現われる。過敏すぎるくらいデリカシーに、その反応を逸速くキャッチし、軽く受け流しつつ話題と視点を方向転換させるテクニックは新米教師にはどうしても覚束ないことだった。
 赤本と称する指導書が宛がわれたのは、確かに救いには違いなかったが、十分に咀嚼して子どもに分け与えたつもりでも、やはり授業が硬くなる。得心のいく領域にはとてもじゃないが達することがなかった。
 内川中時代の同僚である上野正明氏には独特の話術があり聞く者を引き付ける力量があった。私は意識せざるを得なかった。本校に森川與春先生という社会科のベテランが君臨していた。渾名をツエッツエッと称するユニークな方で、授業の上手さでこの人の右に出る存在はないことは誰しも認めた。
 片割れの前半のクラスにはこれまた超ベテランの無雁文太郎先生が熱弁をふるわれた。おのれがいかに脆弱な基盤の上に立っているかは、おのれ自身が一番判った。臥薪嘗胆を肝に銘じた。斯くの如き諸先輩たちには追いつけ追い越せをモットに的を絞込み、密かに照準を合わせた