老いぼれへぼ剣士の独り言

もはや此の歳では剣の速さや剣の技では敵っこない。せめて気力だけでも充満させて対してみるが長続きしない。
ならば、その上に「心」があろうといろいろ勉強して見ても奥が深く深遠で手が届かない。実に情けない。
いみじくも、「猫の妙術」の作者は「心」の更なる上に「無の境地」を説くが
鉄舟張りの修行がなければどうしようもない。
昔の人は何と物凄い猛勉強をしたのだろう。
老荘思想や禅学はいうに及ばず
何と難しいことを学んだのだろうか・・・


剣の心とは(2)

また、佚斎樗山子(いっさいちょざんし)の「猫の妙術(みょうじゅつ)」にみる精悍(せいかん)な黒猫は剣の技を強調し所作(しょさ)を誇示(こじ)した。虎毛の大猫は気を主張し気合で圧倒した。
そして灰色の牡(おす)猫(ねこ)が登場し心の大切さを説き和睦(わぼく)を講じた。処(ところ)が、さらに此の心の上に眠り猫と言う無我・無心・無執(むしゅう)・無敵の境地のあることを説いた。
さらに孟子(もうし)も良知(りょうち)良能(りょうのう)を説き、純真(じゅんしん)無垢(むく)な「赤子(あかご)の心」を殊(こと)の外(ほか)大切にした。数多くの兵法家は此(こ)の「赤子の心」を重宝(ちょうほう)した。
剣道を学ぶ上で「こころ」を学ぶことは当然なのだが、何より基本の中の基本である基本打突の術への飽(あ)くことなき修練(しゅうれん)修得(しゅうとく)を要するは言うまでもない。
次には、打つべき機会を的確に捉(とら)えて間(かん)髪(ぱつ)を入れない電光(でんこう)石火(せっか)の動きと機敏(きびん)さが要求されよう。此(こ)れには、百錬(ひゃくれん)練磨(れんま)の稽古の積み重ねを抜きにしては成り立ち得ない。
そして、その上に剣の“ことわり”を吟味(ぎんみ)することが求められる。つまり、刃筋(はすじ)や手の内の在り(あり)様(よう)に執(しゅう)着(ちゃく)し、剣の理法(りほう)・剣の理合(りあい)を真摯(しんし)に掘り進めねばならない。
然(さ)すれば 、裂帛(れっぱく)の気合(きあい)がほとばしり万全(ばんぜん)の気が気(き)海(かい)丹田(たんでん)に宿り、自ずと湧出(ゆうしゅつ)しよう。
さらに、此の気の上位に位置するのが外でもない“こころ”に違いない。
邪悪(じゃあく)なる非心(ひしん)ではなく、まさに正道(せいどう)たる誠(まこと)の心が宿る真実の剣が生じいずるのである。
心魂(しんこん)を錬磨(れんま)し、真剣味溢(あふ)れる真実の剣を体得(たいとく)するにいたるのである。