老いぼれへぼ教師の回想記《19》

紫錦台  気ままに生きて  小手試し

犀川ダム探訪

 市内の各校の社会科クラブ員が、それぞれの地域に根ざしたテーマーを携えて研究し、その成果を一堂に会して発表し合うという慣わしが当初からあった。
 二年目の長町分校に勤務した年は、丁度本校が当番校にあった。社会部担当顧問の中で最年少の私に白羽の矢が立った。否、むしろ内心では待ち望んだ。
 一年生に所属するクラブ員だけをメンバーにしてスタッフを構成した。とても、有能な個性派からなる多士済々の顔ぶれが揃った。極めて心丈夫であった。とりわけ、山田ひろ子が核となり何から何まで取り仕切り、私には完璧に近い形で右腕となってくれた。
 この年代の女の子としては、微に入り細を穿つ才女振りを発揮したのも事実だった。予備知識を得るべく、足繁く市役所の犀川総合開発事業部の門をたたき概略を調べ上げた上で、現地取材の具体案を練り上げていった。
 夏休みのとある日、埋没集落たる二又新町と倉谷町を目指しバスに乗車した。
デンスケ称する携帯用録音機を持参した。当時はなんとも怒デカイ重々しい代物だった。
 容赦なく照りつける真夏の太陽の下、それでも意気揚々とインタービュウを試みテープに収録した。そこは町育ちの子ども達ゆえ物怖じするところはない。
 工事現場で従事する作業員の方たちにも既に立退き寸前の住人への真に迫る聞き取り調査にしても本職の取材アナウンサー並みの手腕を発揮して実に見事だった。
 発表のための原稿も準備されたが、ほとんど必要とはせずこれまた実に堂々としていた。無雁文太郎先生を始め本校の社会科担当の錚々たる先生方たちも実に上出来と舌を巻いていた。何よりも私自身が清涼感を味わった。 
三年後の昭和四十一年に足掛け五年間の歳月と二十億円近い歳費をかけて、金沢市民の前に水瓶としてその威容が披露されたのである。


 後日談だが私の記憶から完璧に失念し去っていたことながら、当時取材のため八ミリフイルムの撮影まで駆使していた事実を上野正明氏より突きつけられたのだ。氏の秘蔵品の中に紛れ込んでいたものを復元してもらった訳だ。貴重なる資料の断片として文教会館資料室へ寄託するつもりだ。
 なお、その折収録したテープはもはや捜しようがない。