老いぼれへぼ剣士の独り言

おこがましくも図々しく、知ったかぶりで上から見下ろす言い草は下衆の為す、
唾棄されてしかるべき戯言とは十分承知の上で書いてみた。
どうぞ、みなさん一笑に付してください。


剣の心とは(1)

直(じき)心(しん)影流(かげりゅう)島田派を名乗った、島田虎之(しまだとらの)助(すけ)は“剣は心なり”を唱えた。
“こころ正しからざれば剣また正しからず、剣を学ばんと欲するものは先ずこころを学べ。”世に名高い金言(きんげん)、格言(かくげん)なのである。
剣道を学ばんとするものは先ず何より先に剣の心を学ばねばならないのである。
逆にして言えば、心を学んではいないものは剣道を学ぶ資格がないとすら解釈できよう。
厳しき箴言(しんげん)(いましめの言葉)なのである。
そうであるならば、剣の心とは一体何ぞや。そもそも心は誰の目にも見えないし、形がないので掴(つか)みようもない。
少なくとも在(あ)らざる心、正しくない心、非(ひ)なる心、邪ま(よこし)な邪悪(じゃあく)な心、弱弱しい心であるはずはない。
この非(ひ)なる心を切る、非心(ひしん)を切る、この「非切(ひせつ)」をもって剣の極意(ごくい)とした「直心流(じきしんりゅう)」という剣の流派が17世紀中頃に紙屋(かみや)伝心(でんしん)によってもたらされている。
この人物外でもない、鹿島神伝直心影流(かしましんでんじきしんかげりゅう)の第五代道統者たる神谷伝心齋眞光(かみたにでんしんさいまさみつ)に外ならず晩年には人を斬る(き)先に、わが身のあらざる心即ち非心(ひしん)を断ち切ることに眼目を置いた人物なのだ。