老いぼれへぼ剣士の夕雲考《82》

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                          前橋市上泉町
上泉秀綱像
 
夕雲流剣術書        小出切一雲 誌(8)
 
 
 
⑥【秀吉の天下を治め給ふ時分にあたって、鹿島の生れに上泉伊勢と云う者有りて兵法中興の名人なり、夫迄日本に有る流には、鹿島流、香取流、神刀流、戸田流、卜傳流、鞍馬流など云うて、日本國中に漸く六七流のみなり、】
口語訳
 そんな中にあって、上泉武蔵守信綱 ( かみいずみむさしのかみのぶつな )という者がいて、兵法 ( へいほう )中興 ( ちゅうこう )の名人といわれた人なのであります。
 年若き頃は上泉伊勢守秀綱 ( かみいずみいせのかみひでつな )と名乗ったのですが、もともと秀綱は群馬県上州 ( じょうしゅう )大胡 ( おおご )城主 ( ひで ) ( つぐ )の子として生まれ、父の跡を継いで関東管領上杉憲政 ( うえすぎのりまさ )に仕える身だったのです。
 その後、箕輪 ( みのわ )城主長野業正 ( ながのなりまさ )の武将として活躍したが1563年は永禄六年に武田信玄 ( たけだしんげん )の侵入によって主家が廃絶する悲運に見舞われました。
それでも、秀綱は信玄に臣従 ( しんじゅう )することを嫌って、兼ねてからの念願を叶えて兵法者として独立する道を選んでいくのでした。
 そのような間柄であっても、信玄公からの ( あつ )い信頼と信任を受けていたので「信」の一文字を頂戴し秀綱を信綱と改めてゆくのでした。
 その当時、日本国にある流派には鹿島流 ( かしまりゅう )香取 ( かとり )流・ ( しん )刀流 ( とうりゅう )戸田流 ( とだりゅう )卜伝流 ( ぼくでんりゅう )鞍馬流 ( くらまりゅう )などあまねく六七の流派を数えるのでした。