老いぼれへぼ教師の回想記《20》

投稿が途絶えた。三男の嫁さんのお祖母さんが亡くなったので大阪へ赴いた為だ。真言宗の会葬の式次第が異質に映った。
大阪駅周辺の再開発の様子を見聞したがさほどの驚嘆にも値しない感じなり。
何処の都市開発も一様に個性を感じさせない。
ヤングファッションの一角と阪神グッツの売り場に若干の活況を見出した。ただ心残りは郷土の代表校の試合を尻目にかけて大阪を離れざるを得なかったことは逆賊的撤退のように思えて金沢高校には済まないことをしたものだ。
三回戦の必勝を期す。
 
再び 御決まりメニューの再開なり。


其の二  紫錦台 気ままに生きて 小手試し
 
トンネル

 私が紫錦台中に在籍した当時、この界隈を木倉町と称した。昭和四十年の町名変更で片町と改まった。藩政時代の由緒ある呼称が惜しまれつつ姿を消したのが丁度その頃となる。
 未だに一人身であった当時、勤務の後軽く一杯ひっかけるのを慣わしとしつつあった。というのも、ある程度しごとに余裕が生じ自らが酒の味に興味を持つ年頃に漸くにして相成ったとでも申すべきか。
 とにかく大変な堅物で、我が身で言うのも少しばかりおこがましいが、この年になるまで気ままに飲み屋の暖簾をくぐった経験がほとんどなかった程の半端者だった。
 当時この木倉町にトンネルと称する飲み屋の一廓があった。道幅一間程の横小路に天井を覆い被せたような個所があった。
薄暗い街灯が二つ三つほのかに燈るようなところに、妖しげな小さなスタンドバアーが一軒あった。年増のママさんがいつものお世辞笑いで出迎えた。
「あら、いらっしゃい」の声が掛かると、不思議に自分が一人前の男になったような錯覚に陥った。決してこのママさんがお目当てではなかったが、よく顔を出し一杯引っ掛けたものだ。
地方育ちの純朴な子がいたことを思い出す。殊更聞いたわけではないが若くして苦労を背負っているようすが節々から伺えた。
お客が途絶えてから若き教員仲間で店を貸し切ったこともあったし、ある時にはカウンターへ出てマスター気取りで見ず知らずのお客をもてなしたこともあったはず。
確かに菊水時代の健全そのものの酒ではなかったことだけは確かなようだ。
苦い濁り酒の味を知る機会を与えてもらった。夜の歓楽の巷にて社会勉強への向学心を満たすに足る十分な経験だった。ようやくにして晩生な身に青春時代が訪れていた。